感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

前提が違う

はてなで日記を書き始めてから、自分の考えがよりハッキリと自覚できるようになってきたのか、心のモヤモヤ感を引きずらなくなりつつある。
やっぱり、私は言語化できると落ち着くタイプなんだと思う。
最近は心が落ち着き過ぎて書くことないような気がしていたけど、些細なことでも言語化していくことにした。

去年の夏に引き続き、今年の夏も職場で断捨離作業をした。お盆あたりから数週間、ひたすら、不要書類の箱詰めしてゆく。訴訟関連の個人情報が凝縮された書類だらけなので、箱詰めして業者にお金を払って焼却処分してもらう。
単純にどんどん箱詰めできたら楽だけど、クリップ等金属は焼却できないから細心の注意で取り除き、クリアファイルは再利用できるかもしれないから取り除くので時間がかかる。封筒も中味を確認すれば、未使用切手、印紙、現金、図書券などの掘り出し物にも出合える。
今回は、戦後の昭和20年代の黄ばんだ書類なんかも出てきて、この時代は、ワープロもなかったし、タイプライターさえなかった時代で、重要書類は筆で書かれて巻物みたいに紐で縛られていて、ノスタルジーを感じながら作業した。
この夏は自分の業務が忙しくなかったので、ほぼ毎日朝から夕方までずうっと断捨離作業に参加していた。
そんなに頑張らなくていいんじゃない?と先輩に言われるけど、いつもデスクワークなので、こういう肉体労働は喜んで参加している。どっかの医学論文で、デスクワークが毎日四時間以上続けてると、死亡率が20%上がるとかいう統計があるのを目にしたこともあり、職場では嬉々として動いている。

が、今朝は、動きたくないと思った。
それは、夫が古紙回収のための大量の新聞をマンションの玄関まで私に出させようとしたからだ。ヨガに出掛けるなら、ついでに持ってってよ~という意図なのだろうが、あんたも休みのくせに、重い荷物を妻に運ばせるのか! と不満に感じた。

職場なら、それほど重くもない荷物でさえ運ばなくていいよと言われる。けど、私は嬉々として運んでいる。
が、家庭では、なんで私が運ばなきゃなんないんだと文句をいいながら、夫も引き下がらないから、私が面倒くさくなって、エイヤ!と運んだ。
どっちのケースも、私が運んだのだから結果は同じ。正反対なのは私の心の状態だ。
職場では、私のことを心配してくれて尊重されてるような気がするけど、家では、心配されず、ついでなんだからいいでしょ。どうせ暇でしょ、みたいに扱われてる気がするのだろう。

荷物を運んだという目に見える結論は同じだけど、こうも人の心の状態が異なるのだから、私も、人に何かを頼むときは声のかけ方に配慮したいなあと思った。

会話

ある友人に連絡を取らなくなってもうすぐ1年が経つ。

ケンカしたわけでなく、私がその友人の整体院に寄り付かなくなったからだ。私も一切メールを絶ったが、相手が連絡してこないのは、友人関係の前に私が顧客だという遠慮からだろう。

それまでの7年間は、ほぼ毎日メールのやり取りで盛り上がった。なんだか、若かりし頃の交換日記(そういう年代だよ)みたいな内容で、お互いが一日をどう過ごしたか、斬新な飲み屋情報、美味しいデザート情報など、とにかくお互い打つ文章が長い。情報屋で、表現にこだわるところに共通点があった。

 

その頃、私はたわいもない会話に飢えていたと思う。夫との会話は、結論を急ぐ言い方をされるので、すぐに話が終わってしまうのがつまらなかった。

例えば、私が「お茶飲んで暖まろう~」と言えば、夫は、お茶の成分について説明し始め、その成分は身体を冷やすから、お茶で暖まろうというのは間違っていると返答したりする。

その友人との会話は、夫とのフラストレーションや虚無感を埋めてくれていたと思う。

 

が、だんだん、その友人と飲みに出かけるのが面白くなくなり、私が連絡を絶つ1週間前は、一日休みを取って一緒に遠出する約束をしていたが、急な仕事が入ったと適当な嘘をついてキャンセルしてしまった。あんなに会話が楽しかった間柄だったのに、急にその友人の話を丸一日聞くのかと思うと、耐えられなくなってしまった。

そうなのだ。最初はいろんな話のキャッチボールを楽しんでいたはずが、いつの間にか、私ばかりが聞き役になっていたのだ。また、友人は自営業で一人で仕事をしているのだから、私が聞き役になってあげなければいけないと思い込んでいた。

 

幼少期からの人間関係を振り返っても、私は、聞き役に徹し過ぎた果てに関係を絶つことが多かったと思う。基本的に、相手の言ったことを受けとめる姿勢を示してから、自分の話題を話し始めるので、時間的に相手の話だけで終わってしまうこともある。

そうすると、どんどん相手がありのままの感情を顕にしてくる。それはそれで、私に気を許してくれてる証拠で嬉しいのだが、私の意見を言える余地がなくなってることが多い(というより、相手の期待を裏切りたくないから意見が言えないのかも)。

あれ? ほんとにそうかなあ?と相手の持論に対するモヤモヤが積み重なって、何も言わず、突然、相手との交流を絶つ。自分の本心に嘘をついて、聞き役でいることに限界が来るからだ。

 

でも、今思う。

私は、いつだって、相手の意見と反対になったとしても、ありのままの意見を言ってよかったのだ。それが相手に受け入れられなくても、そこからまた相手との新しい交流を深められたかもしれない。

 

その友人がどんどん遠慮なく、モラルの界もなく、別のお客の悪口を言ったり、同じ電車の車両になった赤の他人の容姿についてコメントするのが、私はイヤになってきた。整体師だからこそ、人を外見で判断すべきじゃないし、身体つきと心はつながってると思わないのかと意見したかった。

でも、良いとか悪いとかジャッジする観点を外せば、その友人はありのままに私に接していたのに、私はありのままにその友人と向き合っていなかったんだということに気が付いた。

 

意見がぶつかっても、それも交流の一部として楽しめばいいんだ。

いろんなプロセスと長い年月を経て、結論を急ぎすぎる夫との会話を知恵を使ってどう開拓してやろうか楽しめるようになりつつある。

今がいちばん

暑さで体力消耗するのか、平日の帰宅後も、週末もダラダラしている。そうしないと夏を乗り切れない気がしている。

特にこの間の日曜日は、午前中はヨガに行ったが、帰宅後は昼寝し、気が向いてフルートの練習をし、それからまた昼寝、なんだか猫になったような一日だった。

リビングで寝そべりながら、ふと、今が一番いいなあ~と思った。

よく、10代20代の頃に戻りたいという人がいるが、私は、絶対に戻りたくない!

そのころの週末はダラダラ過ごすなんてあり得なかった。なんだか忙しかった。というか、気が休まる時間が無かったと思う。

「そんなダラダラして~。やるべきことあるんじゃないの?」と母の言葉が響く。

自分で稼げるようになるまでは、自分の時間を好きなように使ってはならない気がしていた。

もちろん、今の私は、誰かに時間を管理されなくても、ちゃんとやっていけるし、自分でやるべきことは決められる。

でも、今でもちらっと、母の言葉が脳内で反響することがある。

そういう時は、「大丈夫。もともと、何でも自分で決めて良かったんだよ。自分の人生だから」と言い聞かせている。

新しい付き合い方

先週は水曜日に仕事を休み、体力気力共にフルチャージできたはずだった。
が、木曜日の遅番終了後、宴会に行ってから不調になり、金曜日は、身は仕事場に在りながら、タマシイ抜けたまま1日を過ごし、土曜日もなかなか復活できないまま用事をこなした。

もしかしたら、アルコールアレルギーじゃないかという疑いが見え隠れしている。
少し前から見て見ぬ振りをしてきたが、アルコールを飲んだ後、決まって、鼻が詰まる。で、鼻が詰まるからか、頭痛もやってくる
今回は、ビール一杯と赤ワイン一杯でこの状態。

は~。2年くらい前までは、ノミニケーションを率先して企画し、男性並みに飲んでも平気だったのになあ。
でも、ちょっとホッとした自分もいる。
もともと、そんなにアルコールが好きというわけでなかった。手っ取り早く、コミュニケーションが取れて、人と人を繋げやすいツールとして利用していただけだ。

よって、それだけの関係だった仲間とは、あっという間に縁が切れた。物淋しいという気持ちもなく、薄情なことに、そういう仲間のことをすっかり忘れている。

いろんな意味で、これからは、アルコールとも人とも新しい付き合い方をしようと思っている(下戸の夫を馬鹿にしたことも反省している)。

初心

今日は仕事を休んでみた。
特に私用があるわけでなかったが、仕事が混んでないときは、ポッカリ空白を作ってみることにしている。
有給休暇を取りづらい夫からは、「サボるな~」とか「ふざけるな」とか言われるが、気にしない。
私には私の仕事の世界があって、そこでバランスが取れればよいのだ。

が、性分なのか、小間切れに動いてしまう。
いつも通り5時に目が覚め、寝床でうだうだしているのも6時くらいまでが限界で、洗濯を済ませて、朝ヨガに出掛け、整体に行き、夜はフルートレッスン。

野口整体の個人指導を受けたのは久しぶりだったが、先生は私の身体からフルートの残像を感じたようだ。
そして、私がフルートを練習せねば~という強迫観念で、フルートを楽しめなくなりつつあることを見抜かれた。
ストレスでお腹にガスがたまり、表情が緩まず強張っているらしい。

そうなのだ、、、。
前夜も仕事後に夜9時までメンバー練習があり、私は家が遠いので帰宅したら11時前になり、正直疲れた。で、今日は個人レッスン。
発表会の2カ月前くらいから練習日が増えるのだが、追われる心理状態になる。

野口整体の先生からは、追われてしまうときは、別の方向からアプローチしてみるといいと言われた。吹く練習だけじゃなくて、吹かないで、イメージトレーニングとか、いろんな人の演奏をYoutubeで聴いてみるとか、、。
一本槍のやり方だと、私の性格上飽きが来るのは自分でも分かっていた。

楽しいから習ってみたいと思って始めたのだから、本来、フルートは私にとって楽しいことのはずだから、本来の目的(楽しむこと)を追求すればいいと言われ、そりゃそうだ~、それが私の『初心』であったと思った。

感情表現

 お盆中は気を遣うことが多かったが、収穫もあったのでメモしておこう。

義父の田舎の家は、普段は無人なので、テレビの契約をしていない。でも、唯一、NHKの衛星放送(無料のもの)は映る。

同じ番組が何回も繰り返されてることもあるし、スポーツ番組も興味ないから、私にとってテレビはただ電源が入ってるだけの存在だった。が、今回は、「この番組、見られてよかった~」と思えるものと出会えた。

 

「奇跡のレッスン」という企画番組で、いろんな分野のプロが、ある程度?庶民的な生徒を指導する番組のようだ。

私が見たのは、元ウィーンフィル管弦楽団のトップだったヴァイオリニストのゲーテさんが千葉の公立小学校に指導しにいく企画だった。

私はヴァイオリンの知識はないが、その小学生たちは、親も真剣で、日々何時間も練習しているようで、演奏中も表情は固くピリピリした緊張感を感じた。

が、指導者であるゲーテさんのレッスンが進むにつれて、生徒のバイオリンの音色がとっても豊かになって、柔らかくなっていった。

修行のような音階練習も、ゲーテさんは、「まず、悲しい音階」と茶目っ気たっぷりに悲しそうな表情で奏でて見せ、次は、楽しい音階、最後に、悲しい音階から楽しい音階に切り替えるというレッスンを皆で一緒にしていて、そういう練習方法は素敵だなあと思った。

ゲーテさんが、「正確に演奏することは僕だって日々試行錯誤中だけど、感情表現はどのレベルの人だってできる。良い演奏家とは、音で物語を作れる人なのです」と語っていたのが印象的だった。


途中から観たのと、掃除機と洗濯機を動かしながらチラチラ観る感じだったので、もうちょっとじっくり観たかったけど、すごく心動かされる番組だった。

誰かと比較して正しいか間違いか、どれだけ正しい形とかけ離れているのかに意識が行きがちだけど、感情表現は個々のオリジナルで、自身にしかできない。

私のフルートもそうだけど、音楽に限らず、感情表現には正しいも間違いもないし、誰だって豊かに表現できるはず。自分が何を伝えたいかに常に立ち戻ることが大事で、それが分かったら、伝わるように表現するには何度もトライしてみることが大事なんだなと改めて思った。

大切にしたいこと

頭の中で何となく考えていることが、ちょうど誰かの言葉として目に飛び込んでくることがある。

また、誰かの言葉が私の思考にヒントをくれて、私の表現になることもある。

 

1年くらい前から野澤卓央さんのメルマガ「小さなコツ」シリーズを購読している。彼は、毎日欠かさずメルマガを配信している。

彼の言葉から気付きをもらうことはよくあるのだが、昨日の「小さなコツ」の中で私の心に響いた箇所を書き留めておこう(以下、抜粋)

『好きなことをやりたい”という人は、
“やりたくないこと”や“人の好き嫌い”で、
悩んでいるように見えたのですが、

 自分の“大切なことが明確な人”は、
“すること”や“人の好き嫌い”の悩みが少なく、

“大切なことのために”自分の命、
時間を使っているようにみえました。

 外側を見て、
私の“好きなこと”を求める人生と、

内側を観て、
私の“大切なこと”を大切に生きる人生は、

似て非なるものだと思いました。』

 

私にとって義父(夫の父)と過ごす時間は、ずっと鬼門だった。何年間も、義父が醸し出す緊迫感が嫌で嫌でたまらなかった。そして、それが、夫に対する不満につながっていた。

が、今回のお盆ミッションを境に、私の心は視界がとてもよくなった。目の前で起きる出来事から目を背けずありのままに眺めることができるようになった。

私が大切にしたいことに気付くことができたからだ。

私が大切にしたいこと、、、それは、どんな時もありのままでいること。それができれば、私からゆったりした空気が流れ、周囲の人がお互いに心を伝えられる空間を作ることができるかもしれない。