感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

基準

人の基準や価値観は十人十色というし、それは理解しているつもりだ。
が、心が波立ったことがあるので文字にしておく。

学生時代の友人が春に離婚し、夏から本格的に住居を分離し、思春期真っ盛りの男の子二人を頑張って育てている。
上の子の高校進学には奨学金を申請し、ひとり親家庭の手続きも申請した。
友人は病弱なのでは長時間は働けないから、ネットビジネスや家賃収入など、できることを試行錯誤中だ。
離婚は大きな決断だし、お子さん二人抱えて、いろんな面でまだ不安が多いと思う。

しかし、私は友人のInstagramを見る度にモヤモヤすることが多くなった。
「今日のランチは○○の店です」「今日のデザートは○店の○○です」「○○お取り寄せしちゃいました~」「この店に行くと、どうしてもこのお菓子買っちゃう~。太りそう~」、、、
実際、友人は学生時代より20キロ近く太った。

これからは親子3人で切り詰めてやっていかなきゃ!私は病弱で仕事できないし~と公言しているので、私は彼女の言動にどうしても矛盾を感じてしまう。
息抜きしたい気持ちは痛いほど分かるんだけど、私の価値基準センサーは彼女の行動(具体的には彼女のInstagramFacebook投稿)にマイナスを示してしまう。

それは、私の同僚と比べているからというのも理由の一つ。
私の同僚は、旦那さんと共働きで思春期真っ盛りの男の子二人を育てているが、毎朝4時起きで洗濯にとりかかり、朝食作り、夕飯の下ごしらえを済ませ、毎日職場に手作り弁当持参、作る時間のないときは職場に納豆パックや缶詰持参、コンビニ商品は割高だから絶対に買い物しないし、外食は家族の記念日だけ。
フルタイムの正社員だが、家のローンと子供たちの学費のために節約している。
自分が病気になったら子供たちが可哀想だからと、健康にも気を付けている。実際、出産経験者と思えないほどスレンダーな体型を維持している。

友人と同僚のすべてを知っているわけでない。
だから、それぞれの一面だけを切り取って良い悪いの評価をつけるのは間違いなのかもしれない。
でも、どうしても、友人のことを口だけの軟弱者だと評価してしまう自分がいる。
どうしてだろう~。自分の心が波立つ時こそ、自分のことがよく分かるチャンスなんだろうな、、、

と思って、10日くらいこの心の波を見つめていた。

そして、ちょっとわかった。
金曜日、仕事を午後休みにして、半年ぶりにフルートのメンテナンスに行った。あんまり来ない場所だからと思って、そこで昔から評判のいい老舗の和菓子を買った。一緒に来てくれるフルートの先生の分も買った。
フルートの先生が、「今日、お仕事は?」と聞いたので、「午後休みにしたので、12時半まで~」と答えた。
その時のフルートの先生の表情が何か言いたげなのをチラッと感じた。
フルートの先生が、メンテナンスの後、生徒のレッスン1件と新規生徒の体験レッスンを控えていて、体験レッスンして、必ずしも入会につながるわけでもないし~という愚痴を漏らすのを聞いた。

そうだよな。フルートの先生は、自己都合で仕事を休んだりしないよな、と思った。
和菓子屋に寄ろうと思える時間の余裕がないだろう。
私も、フルートの先生から「良いご身分だ」と思われてるかもしれない。
フルートの先生は相次いでご両親を亡くし、仕事も1日も休むことなく、現在、仕事の合間を縫って物哀しい思いをしながら離れたご実家の処分に通っている。

私は仕事を午後休みにして、気になってた老舗の和菓子を思い付きで買い、趣味でやってるフルートを工房でメンテナンスしてもらって、カラオケ屋でフルートの練習を3時間やって帰宅。
これを読んで、モヤモヤする人はいるはずだ。

別の例では、50歳を越えた年上の友人が、最近、エステよりも美容整形外科に通い始めたと語っていた。その友人は土台が美人で実年齢よりもずっと若く見えるし、長年付き合っている年下の彼氏だっている。
自然のままでもキレイなのにな~と言ったら、「私の基準は50台じゃないから、いろんな部分が許せないの!」と返ってきた。

みんな、基準が違うんだな~。
それぞれの基準の世界で生きている。
だから、誰かに成り代わって、その人の世界で生きることなんてできない。
代わることはできないから、それは比較のしようがないものなんだ。
みんな、自分の世界で、自分の時間とお金を自分なりの基準と配分でやりくりして、そのなかで、意識的、無意識のバランスを取って生きているんだと思った。
きっと、私が心波立った友人も、今は不安なことが多い日常だけど、心のバランスを何とか取るために、外食で「わあ~美味しい。キレイ~」って束の間の明るい気持ちを味わって、日常のエネルギーを得ているんだ。

そういう観点ができたら、友人のInstagramの外食レポートを見て、「よかったね~。頑張ってね」って躊躇せずイイネボタンを押せるようになった。

続: 心のスペース

たまたま、心のスペース、気持ちのゆとりについて考えさせられる出来事が続いたので、記しておく。

連休明け、ねんきん定期便がこのような状態で届けられていた。
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瞬時に、これは犯罪だろうか? と感じたが、大人的思考で、もしかしたら、事故の可能性もあると思い直した。
が、封筒の裂け目からは、私の個人情報が丸見えで、日本年金機構が親展で発送した意味がない。
所詮、紙だから破損しての仕方ないとしても、郵便配達員は気付かないのか?
いや、この日の郵便物はこの封筒のみだから、気づいていたはずだ。
なぜ、破損していたという一筆を付けないのか。職場の郵便物は、破損された場合、補修されて一筆付けられていることがある。
個人情報の入った郵便なのだから、それ相応の対処が必要なはずだ。そうすることで、郵便配達員は、犯罪の疑いを回避することもできるのだから。

ということで、カスタマーセンターに事情を連絡したところ、配達担当員から私に連絡させると言われた。
電話に出た途端、この配達担当員が、連休明けで多量の配達に追われていて、しかも雨の日で~と、自分の配達業務の過酷さを語り始めたことに呆れた。
誰の責任にもできないし、起きてしまったこと自体は責めるつもりはありませんよと、再三伝えたのに、「じゃ、雨の日はお宅の郵便物は配布しない方がいいんですかね?」と、いきなり極論を述べてきた。
何も断り書きがなければ、中身が個人情報なだけに不安になるから、そういう対処が欲しかったと伝えた。
すると、その日は雨が降っていて、配布物も沢山あったから、お宅の郵便物だけを補修して一筆付けたりする余裕はなかったと言われた。

この人、本当にいっぱいいっぱいなんだなと思った。自身の大変さを伝えることしかできない状態。
なので、基本に戻り、「こういうことがありましたよという情報をお知らせしたかったんですよ」と言ってみた。
すると、そうなんです~。雨の日はそういう苦情が有りすぎて~と返してきた。

そもそも、この人、私の封筒の破れ具合の写真を見ないで、上司に言われたから電話だけかけてきたということが判明。
もう、この人は、現状を見る心のゆとりさえないのだろう。
私が今回お問い合わせしてもしなくても、この人は、ノルマとクレームで心を病んでいく気がする。
心にスペースが無くなって、辛さでいっぱいなんだろう。

心のスペース

先週の土曜日、友人とバスの旅をした。

行き先は、関東最古の神社といわれる鹿島神宮

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他に目的はない。のんびり行こうよというのが二人の暗黙の了解。

これが夫が一緒だと、いかにたくさん観光できるか、制覇できるかという効率性を極めた旅になるので心休まらない。

今回は、気楽な雰囲気を大事にしたい。


東京駅から2時間、バスに乗りっぱなしで目的地まで連れてってくれる。

バスは1時間に4本も出ていて、2千円かからずに茨城県まで行けるなんて、便利だし、連休初日でさぞかし混雑していると思いきや、座席はガラガラ。

鹿島アントラーズの試合でもあれば、もっと混むのだろうか・・・

そして、バスの運転手さんは、やたら独り言の多いおっちゃんだった。茨城弁か東北訛りのようだ。

友人と私は、おっちゃんの独り言に時々気を取られながらも、お互いの近況報告で盛り上がった。

バスがスムーズに茨城県鹿島市に入ったとき、バスの運ちゃんが「あ~!」と大きな独り言を発した。

なんだろう? と友人と顔を見合わせていると、「すいませ~ん。停留所を行き過ぎちゃって、鹿島製作所の正門まで来ちゃいました~」と、鹿島製作所の社員であろう背広を着た人に声をかけていた。

私たちも、他の数少ない乗客も、苦笑いしていた。

ま、これもアリか、ま、いいか~って雰囲気が流れた。


そして、私たちは、終点の一つ手前の「鹿島神宮前」で下車した。が、バスの停留所は神宮の裏側だった。常陸の国の一之宮(その地域の中で一番大きな神社)というのに、道案内が無く、分かりにくく、不安になりながらも、ようやく神社の鳥居が見えてきた。

神社は森の中にあって、その空間では時間を忘れた。

御手洗という湧き水で出来た池の前で、みたらし(御手洗)団子を食べて一息ついた。

ほんとに時を忘れて神社を出たら、午後1時半。

みたらし団子も消化できたので、参道の蕎麦屋に入った。

口コミを読んで覚悟していたのだが、注文してから蕎麦が出てくるまで、1時間かかった。

ま、3か月ぶりに会った友人とたくさん話すことが今回の一番大事にしたい本当の目的で、のんびりすることが二人の求めるものだったから、お腹を空かせながら1時間、会話を楽しんだ。

蕎麦は特製というだけあって、香りも味もよかった。

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二人とも、まあいいか~という心のゆとりがあったから、文句も出なかった。

帰りのバスも、一本逃して、バス停で話ながら次のバスを待った。

帰りのバスでは、お腹が満足して、二人とも爆睡。

東京駅には夕方6時に戻った。

二人でお茶しながら、今日は贅沢な時間の使い方ができたのがよかったねと言い合った。

心にたくさんスペースがあると、待つことも楽しめるのだなと実感した一日だった。


記念日

昨日は結婚記念日だった。

いつからか意識しなくなったけど、数えたら13周年。

振り返れば、あっという間の13年間。

去年までは、「なんで、結婚記念日に料理しなきゃならんのだ~」と思って、外食していた。

が、今年は、なぜか、予算の制約を緩めて質の良い食材を買って、食べたいモノを作るのが一番の贅沢なんじゃないかという心境になった。外食して、誰かの基準で味付けされた料理を食べることが本当に贅沢と言えるのかどうか・・・という気持ちになったからだ。

 

夫のリクエストが特になかったので(食にこだわりないタイプ)、海の幸をふんだんに使ったパエリアにした。思ったよりも手間がかからず、豪華な出来栄え。特別な味付けなくても、エビ、アサリ、タコから出汁が出る。

心もお腹も満たされた。f:id:msyblog:20180918214922j:plain

メンタル測定器

フルートを習い始めて3年と8カ月ちょっと、どうやら初めてのスランプに陥っていると認めざるを得ない。

昨日のレッスンでは、ほとんど音が出なかった。自主練習をサボッていたのなら、練習量を増やせばよいという改善方法がすぐ浮かぶのだが、いつも以上に自主練に時間を割き、練習に励んでいたのでどうしたらいいのか分からなくなった。

 

先生に聞いたり、ネットで検索したりして、音が急に出なくなった原因がなんとなく分かった。どうやら、頑張り過ぎ、力み過ぎが原因のようだ。

身体に力が入り過ぎて、吹き込む息が過剰になって音がかすれる。フルートは、ちょうどいい姿勢、ちょうどいい息の量、ちょうどいい心理状態で吹かないと音が出ない楽器だ。

ある人が、「『もっと〇〇しなきゃ』という思考になりやすい人は、急に音が出なくなるという壁に必ずぶち当たる」とネットに書いていた。

これ、まさに私のことだ。

 

振り返れば、習い始めて1年目、2年目は、全くの初心者なんだから、とりあえず音が出て短い曲が吹ければ十分だと開き直るような気持ちで臨み、3年目はどの音程も出せるようになって褒められることが多くなり、4年目は、どうやったらもっと響くいい音が出るのか、他と比べたりして、もっと曲に表情をつけられるようになりたいと試行錯誤を始めた。

先日の週末は、何か学びがあるかもしれないと考え、別の人のフルート演奏を聴きに行って、偶然にも至近距離の席に座ったものだから、曲を楽しむというよりも、吹き方の観察をしてしまった。帰宅してから、彼女の吹き方を真似して吹いてみて、なんとなくうまく吹けるようになった気分になっていた。

でも、他人の吹き方はその人に合った吹き方なので、安易にマネをしたのが悪かった。

自分のいつもの吹き方やフォームが崩れ、自分なりのいい音を出せるポイントが体感でつかめなくなってしまった。

自分の中のバランスが完全に崩れてしまったようだ。

 

つくづく、フルートは自分のメンタルの状態を反映する楽器だと思う。

悲しいときは音が低くなるし、焦ると上ずったような高すぎる音になるし、今回みたいに頑張り過ぎると音が出なくなる。

そして、「もっと○○しなきゃ」と自分を追い込めば追い込むほど、以前やっていたことが出来なくなってしまう。

「今日はどんな音が出るかな~」くらいの気持ちでいいのかもしれない。

今後の私の人生において、フルートは、私のメンタル状態を包み隠さず写し出す計測器のような存在になるなと思った。

そして、やっぱり、どんな時も、自分以外の人になろうとしない方がいいなと思った。

前提が違う

はてなで日記を書き始めてから、自分の考えがよりハッキリと自覚できるようになってきたのか、心のモヤモヤ感を引きずらなくなりつつある。
やっぱり、私は言語化できると落ち着くタイプなんだと思う。
最近は心が落ち着き過ぎて書くことないような気がしていたけど、些細なことでも言語化していくことにした。

去年の夏に引き続き、今年の夏も職場で断捨離作業をした。お盆あたりから数週間、ひたすら、不要書類の箱詰めしてゆく。訴訟関連の個人情報が凝縮された書類だらけなので、箱詰めして業者にお金を払って焼却処分してもらう。
単純にどんどん箱詰めできたら楽だけど、クリップ等金属は焼却できないから細心の注意で取り除き、クリアファイルは再利用できるかもしれないから取り除くので時間がかかる。封筒も中味を確認すれば、未使用切手、印紙、現金、図書券などの掘り出し物にも出合える。
今回は、戦後の昭和20年代の黄ばんだ書類なんかも出てきて、この時代は、ワープロもなかったし、タイプライターさえなかった時代で、重要書類は筆で書かれて巻物みたいに紐で縛られていて、ノスタルジーを感じながら作業した。
この夏は自分の業務が忙しくなかったので、ほぼ毎日朝から夕方までずうっと断捨離作業に参加していた。
そんなに頑張らなくていいんじゃない?と先輩に言われるけど、いつもデスクワークなので、こういう肉体労働は喜んで参加している。どっかの医学論文で、デスクワークが毎日四時間以上続けてると、死亡率が20%上がるとかいう統計があるのを目にしたこともあり、職場では嬉々として動いている。

が、今朝は、動きたくないと思った。
それは、夫が古紙回収のための大量の新聞をマンションの玄関まで私に出させようとしたからだ。ヨガに出掛けるなら、ついでに持ってってよ~という意図なのだろうが、あんたも休みのくせに、重い荷物を妻に運ばせるのか! と不満に感じた。

職場なら、それほど重くもない荷物でさえ運ばなくていいよと言われる。けど、私は嬉々として運んでいる。
が、家庭では、なんで私が運ばなきゃなんないんだと文句をいいながら、夫も引き下がらないから、私が面倒くさくなって、エイヤ!と運んだ。
どっちのケースも、私が運んだのだから結果は同じ。正反対なのは私の心の状態だ。
職場では、私のことを心配してくれて尊重されてるような気がするけど、家では、心配されず、ついでなんだからいいでしょ。どうせ暇でしょ、みたいに扱われてる気がするのだろう。

荷物を運んだという目に見える結論は同じだけど、こうも人の心の状態が異なるのだから、私も、人に何かを頼むときは声のかけ方に配慮したいなあと思った。

会話

ある友人に連絡を取らなくなってもうすぐ1年が経つ。

ケンカしたわけでなく、私がその友人の整体院に寄り付かなくなったからだ。私も一切メールを絶ったが、相手が連絡してこないのは、友人関係の前に私が顧客だという遠慮からだろう。

それまでの7年間は、ほぼ毎日メールのやり取りで盛り上がった。なんだか、若かりし頃の交換日記(そういう年代だよ)みたいな内容で、お互いが一日をどう過ごしたか、斬新な飲み屋情報、美味しいデザート情報など、とにかくお互い打つ文章が長い。情報屋で、表現にこだわるところに共通点があった。

 

その頃、私はたわいもない会話に飢えていたと思う。夫との会話は、結論を急ぐ言い方をされるので、すぐに話が終わってしまうのがつまらなかった。

例えば、私が「お茶飲んで暖まろう~」と言えば、夫は、お茶の成分について説明し始め、その成分は身体を冷やすから、お茶で暖まろうというのは間違っていると返答したりする。

その友人との会話は、夫とのフラストレーションや虚無感を埋めてくれていたと思う。

 

が、だんだん、その友人と飲みに出かけるのが面白くなくなり、私が連絡を絶つ1週間前は、一日休みを取って一緒に遠出する約束をしていたが、急な仕事が入ったと適当な嘘をついてキャンセルしてしまった。あんなに会話が楽しかった間柄だったのに、急にその友人の話を丸一日聞くのかと思うと、耐えられなくなってしまった。

そうなのだ。最初はいろんな話のキャッチボールを楽しんでいたはずが、いつの間にか、私ばかりが聞き役になっていたのだ。また、友人は自営業で一人で仕事をしているのだから、私が聞き役になってあげなければいけないと思い込んでいた。

 

幼少期からの人間関係を振り返っても、私は、聞き役に徹し過ぎた果てに関係を絶つことが多かったと思う。基本的に、相手の言ったことを受けとめる姿勢を示してから、自分の話題を話し始めるので、時間的に相手の話だけで終わってしまうこともある。

そうすると、どんどん相手がありのままの感情を顕にしてくる。それはそれで、私に気を許してくれてる証拠で嬉しいのだが、私の意見を言える余地がなくなってることが多い(というより、相手の期待を裏切りたくないから意見が言えないのかも)。

あれ? ほんとにそうかなあ?と相手の持論に対するモヤモヤが積み重なって、何も言わず、突然、相手との交流を絶つ。自分の本心に嘘をついて、聞き役でいることに限界が来るからだ。

 

でも、今思う。

私は、いつだって、相手の意見と反対になったとしても、ありのままの意見を言ってよかったのだ。それが相手に受け入れられなくても、そこからまた相手との新しい交流を深められたかもしれない。

 

その友人がどんどん遠慮なく、モラルの界もなく、別のお客の悪口を言ったり、同じ電車の車両になった赤の他人の容姿についてコメントするのが、私はイヤになってきた。整体師だからこそ、人を外見で判断すべきじゃないし、身体つきと心はつながってると思わないのかと意見したかった。

でも、良いとか悪いとかジャッジする観点を外せば、その友人はありのままに私に接していたのに、私はありのままにその友人と向き合っていなかったんだということに気が付いた。

 

意見がぶつかっても、それも交流の一部として楽しめばいいんだ。

いろんなプロセスと長い年月を経て、結論を急ぎすぎる夫との会話を知恵を使ってどう開拓してやろうか楽しめるようになりつつある。