感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

筋書きどおり

最近、生きるのが楽になってきたと感じている。

 

それをある人に話したら、自分をイジメなくなったからだろう言われた。

確かに、自分はダメだ、ダメだ、何もかも平均より劣っていると自分をイジメていた頃は、びっくりするくらい理不尽な事件が身の回りで起きていた。そして、それらの事件に直面するたびに、私は損する星の下に生まれたのだから、日々耐えながら、努力を絶やさず生きるしかないのだと心の中でに言い聞かせていた。

 

10代は、他人の評価に応えられるよう必死になり、20代は、他人からの評価を受ける前に、自ら損な役回りを買って、遠回りの道や棘の道を選択して自分を散々いじめ(結果、心身共に限界を感じ)、30代は、自分は強くなったと信じ込み、仕事も人間関係も自分に取り込めるものはすべて吸収してやると身を削ったりした。

共通してるのは、自分は何かが不足してるのだから努力して外から補わなければならないという強迫観念。

 

振り返れば、自分が自身に対して下す評価どおりの筋書きで、人生が繰り広げられていたのだなあと思う。

自分が不足してると思えば、自分の未熟さを思い知らされる事件が起き、足りないものを補おうと一生懸命になれば、私と同様に一生懸命になってる人に出会い、身を削る一生懸命な行動が加速してゆく。

 

出発点が自己卑下だと、そういうキャラクター設定の自分で物語が展開してゆくのだ。

特に20代、社会に出て他人から評価される機会が多くなると、自分が自分を低く見積もれば見積もるほど、他人からも小間使いのように扱われることが増えていった。私はずっと、田舎者で世間知らずで要領が悪いから、都会で働ける能力もないと信じていたので、やっぱり採用試験も通らず(自分を見極めて会社を選んでいないから)、アルバイトや派遣社員で働いていた。それらの現場で、私は、無能な人間であることアピールをしながら、人のミスを被って恩を売ろうとをしたり、考え過ぎて失敗したり、一人で業務を抱え込み過ぎたり、仕事に恵まれないキャラを確立していった。

そうすると、仕事に恵まれない人生シナリオがどんどん組まれ、そういう場面への出番が日々舞い込んできた。本当に仕事でミスをしてたのか振り返ると、そうじゃなく、正職員のストレスのはけ口役や誰かの身代わりをやっていたこともあったと思う。でも、その頃私は、腹が立つというより、そういう役回りしかできないのだと思い込んでいたので、とりあえず出番があってよかった(何かの役に立ってよかった)と自分の存在価値を感じようとしていた。

自分が作ったキャラで、自分が信じ込んでいた筋書きどおりに人生を歩んでいたのだ。

また、20代は、自分が自分にかけ続けた呪いがどんどん現実化していった時代だったと思う。

 

40代の今の私はというと、10代から憧れていた仕事を正職員でやり、私なんか無理だと思っていた結婚もしている。最初の頃は、やっぱり、自己卑下癖が抜けなかったが、少しずつ、私は私で大丈夫だと思えてきて、周りにも感謝できるようになって、あっという間に仕事も結婚も15年。

私の役回りは、日々、自分で望む通りに選択してゆけるのだし、筋書きだって、どんどん書き換えてゆけるということが分かってきた。

キャラ設定は、あらかじめ特にしない方がいいということも分かった。その場面その場面で、私は自分がこうありたいと望むキャラになれるはずだ。


とは言っても、たまに、不安が自分の有りたい姿を曇らせることもある。

つい一昨日のことだが、仕事で専門的な質問をされ、自分の見解を伝えた。が、昨日、その質問者は、私の前で、私の先輩にも同じ質問をした。そして、先輩も、ほぼ私の見解と同じ回答をした。

だから~、一昨日、私も同じこと言ったよね~と内心イラッときたが、これは、回答が問題じゃなくて、私の回答の仕方が

質問者を安心させられなかったのだと気付いた。

一昨日は先輩が休暇で不在だったので、私は、私の回答で大丈夫かなあ~思いながら質問者に説明していた。そういう不安で未熟なキャラ設定をした人物から説明を受けても、質問者だって不安になるだろう。

やはり、自分のキャラは自身が設定していて、そのキャラの筋書きどおりに自分が人生を展開しているのだなと実感した。