感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

ことば

音信不通になっていた弟から封書が届いた。

 

弟は、鬱病と診断されて10年以上経つ。通院していることは病院で確認できるが、ここ1年くらいは、私も両親も、電話・Eメールを着信拒否されている。こちらからたまに手紙は書くことはあったが、返事は来なかった。


今回の封書の要件は、弟のアパートの契約更新を秋に控え、連帯保証人である私の印鑑証明書を送付してほしいということだった。弟としては、連絡を取らざるを得ない必要に迫られた状況だ。

更新手続き書類と共に、レポート用紙一枚にびっしりと書かれた手紙が同封されていた。

そこには、連絡不通にしていることを詫び、そこに至るまでの心身の状態、現在の状況、しばらく連絡不通のままにさせてほしいということが書かれていた。

私や両親に連絡しなければと考えれば考えるほど、発作や過呼吸、倦怠感に襲われ身体が動かなくなるという言葉どおり、手紙の文字も何日かかけて、なんとか書き上げたというような筆跡だ。

が、言葉遣いは丁寧で、弟が子供の頃から持つ変わらない心の柔らかさが読み取れる。

 

ハッキリ言って、弟は、言語表現が得意ではない。私は、逆で、何でも言葉で言い表さないと理解できないタイプだ。その証拠に、フルートのレッスンだって、「こういう感じ~」と先生に指導されたって、先生の「こういう感じ~」がサッパリ理解できない。先生が「ここは菅をゆっくり上へ持ち上げて、ゆっくり下ろす」と言ってくれて、私は「もう、早くそう言ってよ~」と思ったりする。


そんな私だから、弟が、なぜ、私が話したことをすぐ忘れたり、メールを全部きっちり読まないで、部分的に自分のいいように解釈したりするのか分からず、よくイライラした。弟は、感覚型なのだ。

その違いが分かって、うちの家庭(特に母との関係)は、弟にとって、さぞかし、生きづらい環境だったろうと想像できるようになった。


母は、言いたいことをズバズバ言えるタイプだ。誰かを傷つけようという悪意はないし、情深いのだが、感情に任せた正論をズバリと言ってしまう。例えば、5年前に父が癌を発症し、手術を受け、医師に「再発したら余命2年です」と宣告されたとき、あまりにも楽天的に過ごす父の生活態度に我慢ならなくなってしまった母は、「あんた、余命2年なんだよ。そんなに死にたいんか?!」と父にぶちまけてしまった。

言語重視型、思考偏重型の私から見ると、母の盲点は「感情に言葉が乗っ取られてしまうこと」だと思春期から感じていた。私は、感情と思考を切り離す術を磨き、母に冷静な言葉で応戦し、家庭内での居場所をなんとか確保してきたのかもしれない(その結果、私の盲点は、感情を置き忘れてしまうことだ)。

感覚型の弟は、母の雰囲気を敏感に感じ取り、圧倒されて、自分の心に蓋をしてきたのだろう。

 

ふと、「ことば」って何だろうと考える。

言語表現が上手くないという目で見ていた弟の今回の手紙は、ちゃんと私の心に届いた。

ことばは、誰かを打ち負かすためのものでもなく、正論を主張するためのものでもなく、優劣の評価の対象とするものでもないのだ。

私は、心と心をつなぐために使ってゆきたいと思い直した。

弟に心を伝えることばで返事を書きたい。