感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

「なぜ」の回答

おとといの朝5時半に義父母が家に車で迎えに来て、彼らの田舎で過ごしている。
夫の実家ではなく、夫の両親の田舎に家族総出で、手土産持参で親戚回りをするのが、五月の連休とお盆の年2回のしきたり。

最初の数年は、いろんなことに違和感やモヤモヤを感じることも多かった。
なぜ、親戚同士で異常に気を遣い合ったり、義父が親戚の陰口や愚痴を言うのか。
なぜ、義父の言うことに皆従うのか。
なぜ、義父、義母、私と布団を並べて、夫は、別の部屋で寝てるのか。
なぜ、義父は昔のことをほじくりだして夫を怒鳴りつけるのか。

なぜ、なぜ、なぜ、、、を繰り返して、あっという間に14年目。

でも、ここ3年くらいでやっと私も悟った。

「なぜ」という言葉の前には、「私の育った家庭、親戚はこんなんじゃないのに、このうちはなぜ?」という言葉が存在する。
自分が育った環境や家族関係が当たり前なわけがない。絶対に当たり前じゃないし、普通でもない。
その家、その家族、親類コミュニティで、それ相応のバランスはとれてるはずだ。

うちの実家、親類は女性中心だが、一方、夫の実家、親類は男性中心という違いがあるし、私は言葉に敏感なので、義父の言葉使いに過剰反応していたのかもしれない。
そのコミュニティの中でバランスがとれてるのだと認識できるようになって、一つ一つの出来事を追求する必要はない気がしてきた。

昨晩は、夫と義父がケンカして、夫は、夕方も食べずお風呂も入らず寝てしまった。
夫も極端だが、義父も極端なので、ま、極と極が引っ張り合ってバランスをとっているのだと思えた。数年前までは、私は嫌な気持ちに自ら巻き込まれていた。
極と極は、実は要素が似ている。結局、親子なのだと今では微笑ましく見守ることができる。