感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

会話

ある友人に連絡を取らなくなってもうすぐ1年が経つ。

ケンカしたわけでなく、私がその友人の整体院に寄り付かなくなったからだ。私も一切メールを絶ったが、相手が連絡してこないのは、友人関係の前に私が顧客だという遠慮からだろう。

それまでの7年間は、ほぼ毎日メールのやり取りで盛り上がった。なんだか、若かりし頃の交換日記(そういう年代だよ)みたいな内容で、お互いが一日をどう過ごしたか、斬新な飲み屋情報、美味しいデザート情報など、とにかくお互い打つ文章が長い。情報屋で、表現にこだわるところに共通点があった。

 

その頃、私はたわいもない会話に飢えていたと思う。夫との会話は、結論を急ぐ言い方をされるので、すぐに話が終わってしまうのがつまらなかった。

例えば、私が「お茶飲んで暖まろう~」と言えば、夫は、お茶の成分について説明し始め、その成分は身体を冷やすから、お茶で暖まろうというのは間違っていると返答したりする。

その友人との会話は、夫とのフラストレーションや虚無感を埋めてくれていたと思う。

 

が、だんだん、その友人と飲みに出かけるのが面白くなくなり、私が連絡を絶つ1週間前は、一日休みを取って一緒に遠出する約束をしていたが、急な仕事が入ったと適当な嘘をついてキャンセルしてしまった。あんなに会話が楽しかった間柄だったのに、急にその友人の話を丸一日聞くのかと思うと、耐えられなくなってしまった。

そうなのだ。最初はいろんな話のキャッチボールを楽しんでいたはずが、いつの間にか、私ばかりが聞き役になっていたのだ。また、友人は自営業で一人で仕事をしているのだから、私が聞き役になってあげなければいけないと思い込んでいた。

 

幼少期からの人間関係を振り返っても、私は、聞き役に徹し過ぎた果てに関係を絶つことが多かったと思う。基本的に、相手の言ったことを受けとめる姿勢を示してから、自分の話題を話し始めるので、時間的に相手の話だけで終わってしまうこともある。

そうすると、どんどん相手がありのままの感情を顕にしてくる。それはそれで、私に気を許してくれてる証拠で嬉しいのだが、私の意見を言える余地がなくなってることが多い(というより、相手の期待を裏切りたくないから意見が言えないのかも)。

あれ? ほんとにそうかなあ?と相手の持論に対するモヤモヤが積み重なって、何も言わず、突然、相手との交流を絶つ。自分の本心に嘘をついて、聞き役でいることに限界が来るからだ。

 

でも、今思う。

私は、いつだって、相手の意見と反対になったとしても、ありのままの意見を言ってよかったのだ。それが相手に受け入れられなくても、そこからまた相手との新しい交流を深められたかもしれない。

 

その友人がどんどん遠慮なく、モラルの界もなく、別のお客の悪口を言ったり、同じ電車の車両になった赤の他人の容姿についてコメントするのが、私はイヤになってきた。整体師だからこそ、人を外見で判断すべきじゃないし、身体つきと心はつながってると思わないのかと意見したかった。

でも、良いとか悪いとかジャッジする観点を外せば、その友人はありのままに私に接していたのに、私はありのままにその友人と向き合っていなかったんだということに気が付いた。

 

意見がぶつかっても、それも交流の一部として楽しめばいいんだ。

いろんなプロセスと長い年月を経て、結論を急ぎすぎる夫との会話を知恵を使ってどう開拓してやろうか楽しめるようになりつつある。