感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

自分以下でも以上でもない

前回の真冬の日記からだいぶ間が空いて、もう桜開花の予報が出る季節になっている。

馴染みの場所を散歩すると、モクレンの花が開き、ソメイヨシノの蕾が日々膨らみ、草花の勢いを感じる。

春だからというわけではないが、年明けから、私の思考は行動に追いつかない状態が続いている。

行動が前へ前へと行く感じで、じっと落ち着いて日記を書いて振り返ることがなくなってしまった。

年明けから新しい心躍る出会いもたくさんあって、それぞれの感想を書き留めておきたいとも思うのだが、一つ行動に移すと、それにつられて状況が変化して、また私の中で新しいアイデアが生まれて、そして、またそれを行動に移して、行動するからまたさらに状況が変化してゆくので、一点の状況を書き留めようという気が起きなくなってしまった。

新しく出会った友人が、一行日記というものをパソコンで20年近くつけているというのを聞いて、そりゃいいな!と思って、私も今日からやります!と宣言したが、開始していない。

果たして一行に収められるんだろうか、と思うと一行も書く気がしなくなるからか。

でも、きっと、近々始めることは分かっている。

 

今日は自分の行動について書くが、最近の私、行動の根拠が変わった。

以前は、もっとこうすべき~とか、もっと仕事ができるようにしなくちゃいけないとか、もっと精神的に大人な対応ができるようにならなくちゃとか、そういう視点で自分の行動を律していた。

良く言えば、向上心があるということがもしれない。

が、年が明けて、こういう気持ちになった。

45歳を過ぎて、もう、自分が今持ってる能力を最大限に活かせて、それが誰かの役に立てれば最高じゃないか~と。

「自分以上でも以下でもない」のだから。

そう思ったら、自分が与えられた環境、与えられたもの、自分が生まれ持ったキャラクター、後天的に身に付けた能力、すべてをどうしたら上手く活かせるか、どうしたら求める誰かと共有して喜びに変えられるかに行動の根拠が移った。

仕事をしていても、休日であっても、毎日がありふれた日常でなくなりつつある。

自分の中にあるものをどういう形で共有してゆくか、企画中である。