感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

それって、ほんとかな?

お正月は親戚が集まる。

年を重ねた大人の比率が多いので毎回挙がる話題は健康問題。夫は学生時代から20キロ以上体重が増えたので格好のターゲットにされる。

人は誰かにああしろこうしろを言っている時(自身は正義だと感じている時)、性的快感を味わっている状態と同じくらいの脳内麻薬物質が放出されると何かの記事に書いてあった。

ま、これは置いといて、今回のテーマは義父の言葉。

「体を動かす機会を作ってやらないのは妻の責任でもあるよ」

これまでの私なら、は~??なんで私が責められなきゃならんのだ!?と後からぐずぐず怒りを引きずっていただろう。

今回は、そういう被害者意識は全く湧いてこなくて、そういう思考回路について探究したくなった。

 

果たして、家族ならば、人は誰かに成り代わって責任を担げるのか?

たぶん、昭和時代までは、良き妻は夫や家族の健康に気を配ることが自身の役目だと誇りを持ち、そこに存在価値を見出していたかもしれない。が、そのために、夫は妻の不在時、妻の代わりに自分を管理してくれる女と一緒にいたり、妻を先に亡くせば、自身の健康管理に責任が持てなくなって長生きできなかったりしたのではないか。また、その反対もしかり。日常生活で妻に管理されている生活が窮屈になって、外に自由を求めることもある。

さらに、子どもが受験を控えていると親は自身も心配と不安で欝々とした毎日を過ごすようになる。子どもが自身で負うべき責任を親が分担してやることなど不可能だと心では分かっているだろう。それが分かっているからこそ、冴えない表情をしている。そして、子どもに「勉強しなさい」としか言えなくなる。

もともと、自分以外の人間の責任を分担してやろうとすることは不可能だ。そうしてやりたいと思っても結局は中途半端になるか、相手の自由選択権を奪い、自分じゃ何もできない夫(子ども)、反発して逆のことをする夫(子ども)が出来上がる。

健康管理だって、受験勉強だって、最初は試行錯誤したって、自身が無理し過ぎずちょうどいい方向性を見つけることが大事だろう。それを見つけられるのは自身しかない。

義父に言い返すとしたら、「そうやって、お義父さんが息子が負うべき責任と自身の責任を混同して、息子を管理しようとしてきたから、大人になった息子は自身の身体に気を配れず、時には反抗心で自己管理しようともしないんですよ」と。

私が夫に協力できることは、私自身が心地よく健康に気を配った生活を実践して笑顔でいることだと思う。