感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

ピプノセラピー1回目

日曜日の夜、Zoomでピプノセラピーを受けた。

ピプノセラピーがどんなものかあまり理解していなかったが、以前から交流のあるmachikoさんがやってくれるというので信頼して受けることにした。

このセラピーは、「自分の感覚を信じられるようになりたい」という私の欲求に沿っているように感じた。

ピプノセラピーは、催眠療法の部類に入るが、クライアントが眠って寝言のようなことを言って、それに対してセラピストが診断を出すわけでない。
初回、私は全く眠くならなかったし、隣室で夫が観ているテレビの音も聴こえるし、時折ニャ~ニャ~言いながら様子を見にくる猫2匹をなだめながらセラピーを受けた。
 
私は頭がカタイ、思考タイプなので、映像が見えたり、イメージが膨らむタイプではないから、何にも浮かばなかったらどうしようと思っていた。
が、machikoさんの言葉がけで、昔の記憶というか、子供時代の一場面の光景がハッキリと浮かんだのには驚いた。
 
machikoさんのピプノセラピーは5回コースで、毎回言語化シートを提出することになっている。自分で気付いたことを継続的に言語化する作業がとっても大事だというので、ここにも記録してゆくことにする。
 
あらかじめ、私が安心できる場所は森の中と伝えてあったので、machikoさんは森の中へ誘導した。
それからどんどん、私のイメ―ジの世界へ。。。
のはずが、私は何も思い浮かばなかったので、machikoさんがチャネリングで私の身体の中に木炭の様なものが見えると言った。
ふと、子供時代のお正月、母方の祖母の家に親戚で集まったとき、祖母が豆炭をケースに入れて古着でくるんで私たちの布団の中に入れてくれた光景が浮かんだ。
その光景が浮かんだ途端、なぜか、涙が出てきた。
母方の祖母なので、日常的に一緒に住んでいたわけではないし、私は、おばあちゃんっ子でもなかったというのに不思議だった。
祖母は健康体で92歳で亡くなるまで畑に出ていた。7、8年前に亡くなったが、高齢だから仕方ないと受け止めながら葬儀に出席した。
私のイメージの中の祖母は、ずっとニコニコ笑顔だった。
machikoさんに祖母が何か言っているか聞かれたけど、祖母は「元気か?」と短い言葉しか言わない。ただ、ずっと暖かい笑顔のままなのだ。
 
すると、場面が切り換わり、母方の伯父伯母(母の兄妹たち)がこたつに入って楽しそうに話をしている光景が浮かんだ。
私もその輪に入りたくて、こたつに入るのだけれど、何を話せばいいか分からない。心優しい伯母(母の姉)が話しかけてくれるのだけど、私ははにかんだまま、こたつに潜った。
私は、とっても話したかったし、みんなの話の輪に混ざりたかった。
が、その一方で、怖れを持っていた。
「言いたいことを言ったら、また、母に何か言われる! 馬鹿にされたように笑われるのは、すごく嫌!」
 
今回のセラピーで浮かんだ場面はこの2つだけ。
私は、幼少期から思春期まで無口なキャラクターだった。友人や大人たちから問いかけられた時だけ、うなずくか首を横に振るだけで回答を済ませることも多かった。
今回の場面を振り返って、私は、話をするのが嫌いだったのではなく、とっても話をしたい欲求を持っていたのだと実感した。
単に、母から揚げ足を取られるのが嫌で、そうされることを恐れて、言葉を発さなかったので、話下手だと思い込み、周囲にもそう思われ、私は、なるべく一人でできる職業に就いた方がよいのだろうとさえ考えていた。
30代半ばを過ぎてから、ようやく、実は人と話をするのが好きかもしれないと感じ始めたら、就きたい職種にも恵まれ、人の輪がどんどん拡がっていった。
現在、40代半ばを過ぎ、日常的な仕事とは別に、人に言葉で物事を伝える役目が増えた。
とっても楽しいのだが、まだ心のどこかで、「私は口下手だった」「うまく言葉にして伝えられるだろうか」という不安が残っていたのだと思う。
その意識は、「私は、もともと話をするのが好き。口下手なんじゃなくて、単に言葉を心に留めていただけ。今は、沢山言葉に表現することができる」という新しい意識に大きく切り換わった。
 
そして、祖母の存在が教えてくれたもの。
祖母は、そこに居るだけで、母や母の兄妹たちをつなげていた。
言葉を沢山発しなくとも、ニコニコ笑顔でいるだけで、その場の空気が暖かくなり、皆の居場所になっていた。
この場面は、気の利いた言葉を発信しようとしなくても、自分の心が穏やかであれば、人をつなげたり、誰かの心の居場所になったりすることができるという意識を導き出した。
 
第1回目のセラピーは、私の「話したいけど、怖くてできない」というインナーチャイルドに会いに行ったのだなと思った。