感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

新しい仲間、新しい体験

前回の日記から8カ月ぶり。

師走が目の前にチラついてきたし、振り返ってみようと思う。

このコロナ期、私にはおもしろい現象が起きていた(起きている)。

これまでの友人たちや実家の家族とは会う機会が激減した分、新しい友人や知人が沢山できたのだ。そして、新しい友人や知人は、頻繁に会わなくても不思議と考えが同じ方を向いていて、LINEのやりとりが長文になりがちだったり、楽しく奥深いやり取りが尽きない。

さらに、私は、この8カ月、新しいことをたくさん体験することができた。沢山あるけど、主要な体験を書き出してみる。

 

①フルートの先生のご縁で、30年ぶりにピアノレッスンを再開して、来月30年ぶりにピアノの発表会に出る。こう振り返ると、当時はモヤモヤして迷ったが、フルートの先生を1年前に変えて本当によかったし、今の私は満たされていると感じる。

②4月からの緊急事態宣言下の2カ月間で知り合った仲間と意気投合し、要望を受けて、9月から星読み講座を開講することになった。そして、マンツーマンのタロット講座も始めることとなった。

一対一で人に何か手ほどきするのは得意なのだが、複数人を相手に講義しながら手ほどきする経験は生まれて初めてだった。初回は、2時間の枠をどう進行してゆくか、飽きさせないで楽しんでもらうにはどうしたらいいか、でも、知識もちゃんとお持ち帰りしてほしい、プリントはどういう構成で作成しようか・・・と頭ぐるぐる状態になったが、場の空気感は、結局は、その場にいる生徒さんたちを含めてその時その時で作られてゆくものだと実感した。

③一般的な会社員の生活パターン(土日休み)ではない人々の日常の流れを体験することができて、視点が増えた。

 

もしかしたら、定期的に出掛けていた旅行よりも、ワクワクする新しい体験ができて、人生を左右するような新しい視点が持てた年だったかもしれない。

新しい仲間や新しい体験は、この先もたくさん待っている気がする。

私の原風景

ここ1、2カ月のことだが、色を感じられるようになった気がする。

もちろん、以前の私も、何色か問われれば色の名前は答えることはできた。「色を感じられる」というのは、視覚上での認識ができるという意味ではなく、色が醸し出す雰囲気を自分のイメージで感じることができるかどうか。

例えば、以前の私は、草花を見ても、「ふーん、キレイだな」ってサッと通り過ぎる感じだった。が、今の私は、足を止めて「わあ。この色、なんというか、言葉では言えない柔かさ。自然が作り出す色って真似できないなあ。きっとこの色合いは一回限りで、もしかしたら、今日この場でしか見られない色かも」とか感じることが増えた。心が動く感じなのだ。

これは以前の私には無かった感覚だと思う。

 

先日、野口整体に久しぶりに行ったときに、先生からいつものように「最近体調はいかがですか」と問われ、いつものように「とりわけ不調はありませんけど。」と答えた。そして、言おうか言うまいか少し迷って、「気のせいかもしれないけど、色を前よりも感じられるようになった気がします」と付け加えた。

先生が私を触って「ああ、ほんとに、そうですね~。これはすごいな」とつぶやいた。そして、「この風景は、ご実家でしょうか。お身体にこれほど深く染みついてるとは。」「なんといえばいいのか分からないのですが、わびさびの世界というか、物悲しいというか」と言った。

先生も私と同じ風景をイメージしているのだろうかと思って「風景っていうのは、山に積もった雪が溶けだして煙みたいに空に上がってて、春になる前のうす暗い空の感じなんです。墨絵の世界みたいな」と私が言い終えるのを待たずに、先生が「そうそう」と頷いた。先生が「何だか、物悲しいという言葉を当てはめてよいのか分からないのですが」と言った。私は、「ああ、子どもの頃、春になりきる前、雨がよく降って山の雪が溶け始めて煙みたいに上がってるのをよく眺めていた記憶が最近蘇るんです。そういう日って、ちょうど今日みたいに寒の戻りというか、うすら寒いんですよね。春になる前って、冬に別れを告げてるような、明るくなる前の暗さというか、ちょっと淋しい、物悲しい感じなんです。何か特定の悲しい出来事があって悲しいのとはまた違う、心の行き所がないような物悲しい感じなんです」と説明した。

先生は頷きながら黙って聞いていて、こう言った。

「それって、あなた自身の身体に深く染みついてる感覚なんですよ。あなただけの風景。きっと、これから、そういう感覚が活きてくるんでしょうね。例えば、フルートを吹かれる時、上手・下手の域を超えた音色として表現できてくるかと思いますよ」

 

私は、最初の頃、先生に会った時、どうしてこの人は言語表現が下手なんだろうかと失礼ながら思ったことがある。が、今、身体の感覚は、言葉では言い表せないもの、その人個人だけが感じられる唯一無二のものなのだと実感できる。

そして、私の身体に深く染みついている原風景をこの先どうやって表現していこうか、どう表現できるのか、とても楽しみになってきている。

 

 

そうだったのか~!!

文章に残しておきたいと思って、タイトルだけ下書きしてしばらく経ってしまった。ようやく文章にしてみる。

 

去年9月、趣味のフルートの先生を変えた。フルートという楽器をイチから教わって4年半という長い師弟関係を解消するのには勇気が要った。何だか、自分から別れを告げたくせに過去を引きずる女のような心理スパイラルにハマり、気持ちが元に戻らないまま3カ月くらいが過ぎた。

が、今は憑き物が落ちたように、新しい先生と新しいフルートライフを楽しんでいる自分がいる。さらに、この先生との出会いによって、オセロの駒がどんどんひっくり返されるような日々の連続。

「それ、初めて聞きました!」「なんで、今まで言ってくれなかったんだろう??」「なんで、あんなに自分を卑下してたんだろう?」「なんで、気付けなかったんだろう?」

ひと言で表現すると、「わたし、完全に頑張る方向性がズレていた」のだ。

新しい先生の指導を受けることで、私の概念はたくさん覆された(覆されている途中かも)のだけど、46年と約半年生きてきて、「え~!!ホンマにそうなん⁉ そうやとしたら、この46年はなんやったの?!」と衝撃を受けたことを書き記しておこう。

私は昭和の教育にどっぷり浸かって生きてきた自覚はある。なぜなら、父親が教員だったから、つっぱねる勇気がないから、どっぷり浸からなければ、自身を防御できる自信がなかったからだ。

その当時の教育といえば、「努力・根性・根気・気合い・継続は力なり」だろう。だから、勉強も習い事も、とにかく、時間をかけて繰り返し取り組んできた。修行僧のように、それらを楽しいものだと感じたことがない。習い事のピアノも、時間をかけて血のにじむような努力が必要だと両親から言われていたし、そう信じていた。

そんな過去の経験から、40歳になって始めたフルートもそういう体勢で取り組んでいた。が、フルートは、力が入れば入るほど、音が出なくなったり、音が震えたりブレたりする楽器だったと4年半後に気づいた。

いくら練習しても、レッスンで音が出なかったり、発表会で練習の6割も発揮できないのだ。いい大人なのに本番で落ち着いて力が発揮できないなんて、恥ずかしいことだと思いながら、そういう悩みを新しい先生にチラッと話した。

先生: へ?? だって、本番って練習と全然違うと思わない? 場所も違うけど、着てる服だって違うし。そもそも、日頃の練習と同じように演奏できるわけがない。

私: そうだけど、本番で6割くらいしか力を発揮できないのは、日々の努力が足りない証拠ですよね。

先生: いやいやいや~。だから~、練習どおりにやろうとしてもそもそも不可能なの。プロでも素人でもそこは同じ。あれと同じだよ。結婚式のスピーチを前夜まで一生懸命練習して、本番にちょっと原稿と違うこと言っちゃった途端、頭真っ白になる人いるよね。練習どおりにやらなくちゃって思う人ほど失敗するパターン。

私: え~!! だって、私の受けてきた教育は、勉強でも運動でも習い事でも、日頃の努力が発揮できますように~って周囲は応援するし、日頃の努力の成果を出さなきゃいけないって頑張ってきた教育で・・・。だから、本番でうまくいかないのは、日々の努力が足りないからかと思ってました。。。

先生: そんな~(笑)。自分をイジメ続けて、苦しすぎる人生、自分が可哀そ過ぎる~(笑) 日頃の練習時は集中して練習し、本番の時はその時に置かれた条件でできる演奏をやれば充分じゃないかな。

 

この会話のあと、私は、一瞬だけど放心状態になった。

そうか~。そうだったのか~!!

努力が足りないと自分を卑下して努力していた自分が滑稽にも愛しくも感じて、笑ってしまった。

 

 ※ちなみに、4年半習っていた先生は、私がレッスン時にうまく音が出ないと「最近いつ練習した?練習してないんじゃないの?」って言うタイプだった。実際のところ、私は、そのレッスンの日、直前までカラオケ屋で練習していたり、ほぼ毎日練習していた。逆に練習してない時の方が上手く吹けたりして「あら?今日はいい音出てるね~。練習したのね~」なんて言われることが多々あった。

今回の新しい先生は、観点が全然違う。「日々練習してるかどうかなんて、実際のところ、俺には見えない。練習してなくても、練習していても、今この場で今のコンディションで集中してレッスンを受けることが大事だ」と。新しい先生の方が年が若いわけではなく、全く逆である。昔の先生は、私と同年代の40代、新しい先生は、60代である。年齢は関係なく、精神年齢の違いなんだろうな。

 

 

 

 

それって、ほんとかな?

お正月は親戚が集まる。

年を重ねた大人の比率が多いので毎回挙がる話題は健康問題。夫は学生時代から20キロ以上体重が増えたので格好のターゲットにされる。

人は誰かにああしろこうしろを言っている時(自身は正義だと感じている時)、性的快感を味わっている状態と同じくらいの脳内麻薬物質が放出されると何かの記事に書いてあった。

ま、これは置いといて、今回のテーマは義父の言葉。

「体を動かす機会を作ってやらないのは妻の責任でもあるよ」

これまでの私なら、は~??なんで私が責められなきゃならんのだ!?と後からぐずぐず怒りを引きずっていただろう。

今回は、そういう被害者意識は全く湧いてこなくて、そういう思考回路について探究したくなった。

 

果たして、家族ならば、人は誰かに成り代わって責任を担げるのか?

たぶん、昭和時代までは、良き妻は夫や家族の健康に気を配ることが自身の役目だと誇りを持ち、そこに存在価値を見出していたかもしれない。が、そのために、夫は妻の不在時、妻の代わりに自分を管理してくれる女と一緒にいたり、妻を先に亡くせば、自身の健康管理に責任が持てなくなって長生きできなかったりしたのではないか。また、その反対もしかり。日常生活で妻に管理されている生活が窮屈になって、外に自由を求めることもある。

さらに、子どもが受験を控えていると親は自身も心配と不安で欝々とした毎日を過ごすようになる。子どもが自身で負うべき責任を親が分担してやることなど不可能だと心では分かっているだろう。それが分かっているからこそ、冴えない表情をしている。そして、子どもに「勉強しなさい」としか言えなくなる。

もともと、自分以外の人間の責任を分担してやろうとすることは不可能だ。そうしてやりたいと思っても結局は中途半端になるか、相手の自由選択権を奪い、自分じゃ何もできない夫(子ども)、反発して逆のことをする夫(子ども)が出来上がる。

健康管理だって、受験勉強だって、最初は試行錯誤したって、自身が無理し過ぎずちょうどいい方向性を見つけることが大事だろう。それを見つけられるのは自身しかない。

義父に言い返すとしたら、「そうやって、お義父さんが息子が負うべき責任と自身の責任を混同して、息子を管理しようとしてきたから、大人になった息子は自身の身体に気を配れず、時には反抗心で自己管理しようともしないんですよ」と。

私が夫に協力できることは、私自身が心地よく健康に気を配った生活を実践して笑顔でいることだと思う。

 

 

 

万全は無い

9月の終わり頃からなんとも言えない徒労感が拭えなかった。3カ月経過してようやく、過去に目を向けている自分に気付き、今新しくつながってくれた人たちを大切にしないともったいない、この人たちと楽しい時間を作り出していけばいいじゃないかと思えてきた。


徒労感の発端は、四年半のつきあいだったフルートの先生との師弟関係を終了したこと。最後のレッスンとなった日、フルートの先生は私にダメ出しをした。いつもは、「わぁー、いい音~」とか、「今日は何かあったのかなぁ~」とか擬音語表現や感覚表現の人がいきなり連続ダメ出し。

「あなた、最初からフルートの持ち方が全然できてないもん」「全然音階を感じるように吹けてないし、、」等々

私はあっけにとられた。

フルート初心者で何も知らないところからよろしくお願いしますと先生に何度も伝え、自分なりに試行錯誤してきた四年半は何だったのか。自己流にならないためにあえて先生から指導を受けようと思って続けていたのに、最初の大事な期間に基礎を学べなかったガッカリ感の波が押し寄せてきた。

さらに、先代の飼い猫(享年18歳)が具合よくない時期にも、いつも通りの日常を維持しようと練習に出掛けていた時間を悔いて悲しくなった。また、惰性で指導されたのだとしたら、うまく吹けない箇所を自分なりに一生懸命練習し、左肩が後ろに回らなくなってしまった体験が路頭に迷うではないか。

先生は、「あら? 学生さんみたいにもっと厳しくすればよかったのかな? 泣いちゃうかもよ~」と言ってきた。

そもそも、先生の言う「厳しい」の定義にズレを感じるし、「泣いちゃう」とかいう感情表現は、四十半ばを過ぎた思考型の私には当てはまらない。


何だったんだ~! この四年半は!

一番の徒労感は、大人の趣味なんだからいくらでも先生を変えられるのに、この先生を選択した自身の目に狂いはないと信じたかった自分の愚かさと、努力が足りないから上達しないのかと思い続けた自責感に疲れた。


そして、10月から新しい先生に教わっている。正確にいうと、8月半ばの音楽イベントで、友人の紹介で、未来の先生になる人と知り合った(この時はこの人のレッスンを受けようとは全く考えてなかった)。

音楽を職業とする人には二種類いると知った。

自身が演奏するのが好きなタイプで食べてゆくために教室でレッスンをする人。

一方は、自身が演奏して楽しいからこそ、その楽しさをレッスンで伝えたい、教えるのが好きな人。

10月からの先生は後者だ。四年半全く知らなかった技術を惜しみ無く分かるまで解説してくれ、私の微妙な吹き方の違いを指摘してくれ、努力すべきポイント、努力すべきでないポイントを教えてくれる。 

あと、先生自身の音楽との向き合い方を話してくれた。

何でも練習してできるようになったら披露しようと考えるかもしれないけど、準備万全な日なんて絶対来ない。その時にできる範囲で本番に向き合うことが大事。できるかできないかより、本番を経験することが一番貴重。

気分が乗らないまま演奏して、なんの罪もない聴衆に自分の気持ちを背負わせてはいけない。背筋を伸ばして前を向いて歩くだけで自分の気持ちって変わってくる。人間の気分って、ちょっとしたことで変わるものだよ。


また新しい出会いに恵まれ、新しい仲間との輪が拡がりつつある環境を大事にしようと思っている。自分の気分は自身で変えられるんだという安心感へと徒労感は変わりつつある。

99年

祖母が亡くなってあっという間に3週間が経とうとしている。99年と約2カ月の人生。

当たり前だが、私は、祖母の若い頃を知らない。計算してみれば、祖母という人は、53歳で私の祖母になったのだ。近所の人からは、「若いおばあちゃんでいいね~」と声をかけられていた記憶があるが、祖母という時点で年寄りなんだから、若いという意味が私には分からなかった。四十も半ばを過ぎて子供をもたず五十が見えてきた今の私からみたら、祖母が若いおばあちゃんだったというのが十分理解できる。

そして、祖母は、家族のなかで最も精神年齢が若かった(と思う)。何を基準にするかにもよるが、世間一般の「穏やかな優しい祖母」のイメージとは違う。趣味や好きなことがあれば時間とお金を費やして突っ走り、その反動でエネルギー切れで数日~数週間寝込んで何もできなくなり、気に食わない人がいれば誰彼構わず徹底的に攻撃し、思い通りにいかないことがあると根に持ってずっと仏頂面。

衝撃的な記憶といえば、祖母は何度か入院していたことがあるが(旅行で張り切り過ぎて脚を骨折したことが数回ある)、毎日のように私に手紙を送ってきた。小学生だった私は、返事が面倒で書かないで放置したことがあった。すると、見舞いに行ったとき、母が花の水を交換しに病室を出て行った隙を見計らい、「なんで返事くれないのよ!」と私の腕をつねってきた。これには、小学生の私も驚いた。クラスメートでも腕をつねってくる奴はあまりいない。

今から振り返れば、初孫の私のことを常に意識下に置いてくれていたのは祖母なりの愛情表現だったのかもしれない。

孫だからいいけど、こんな姑だったらどうだろうか。母は専業主婦で祖母と50年近く人生を共にし、自宅で祖母を見送った。実の息子である父は祖母の最期に居合わせられなかったので、母だけが祖母を看取った。

母に対してだけ、面と向かって感謝の言葉を口にしたことがなかった祖母は、亡くなる1年前くらいから「ありがとう」という言葉を母に言うようになっていた。

人の寿命はそれぞれでそれぞれに生きる理由があると思うが、祖母が頭がしっかりしながらも自力では何もできなくなってからも長期間この世に留め置かれた理由は、自分のエゴを充分に味わい、執着から解放されるためだったのかもしれないと私は感じている。

 

笑顔。

お盆が開けてすぐ、実家の父から、Rちゃんの葬式に行ってきたというメッセージが届いた。

私は、そうなっちゃったのか、、、と思った。

 

Rちゃんは、私が小学校1年生の頃すでに6年生で、とっても優しかった。

私が小学校に緊張しながら登校するとき、天使のようにニッコリ笑って、鈴が転がるような声で私のニックネームを呼んでくれた。

年下の私たちも、村の人たちも、みんなが「Rちゃん」と呼んでいた。

「Rちゃん」と名前を口にするだけで、皆、心にパッと花が咲くような存在だった。

私自身はRちゃんと年が離れていたので、小学校一年間の登校班以外でRちゃんとの個人的な接点はない。それ以降は、村の人や親が話すRちゃんの良い噂しか耳にしなかった。

個人的な接点は乏しいが、Rちゃんの家と私の家は、本家が同じという親戚関係にあった。さらに、Rちゃんの両親は両方ともベテラン教員で、Rちゃんのお母さんは、私の小学校時代の担任だった。Rちゃんのお母さん、つまり、H先生は、厳しいと評判だったけど、鈍くさい(とろい、のろま)とよくからかわれた私の面倒を見てくれて、家も近所だったので勉強やピアノ練習に通ったこともあった。

H先生の家に通っていたど、Rちゃんは学業や部活に忙しいようで、一度も会ったことはなかった。

H先生は、授業中、たまにRちゃんの話をすることがあって、その時のH先生は誇らしげに話していた記憶がある。

私は小中学生の頃、よく思った。

「Rちゃんみたいに美人で性格がよくて、勉強もスポーツもできたら毎日が楽しいだろうなあ。不公平だなあ。Rちゃんみたいに生まれたら幸せだったのになあ」

 

それから私は高校を卒業して、実家を離れて暮らすようになり、社会人になって、久しぶりにRちゃんの噂を聞いた。

「Rちゃん、幼稚園の先生やっとったんやけど、身体壊して、拒食症みたいになって療養しとるみたいやわ」

それを聞いたときは、「ふーん、人生いろいろあるもんや」と答えた気がする。

それから、帰省する度に、Rちゃんの健康状態に関する噂を耳にするようになり、「Rちゃん、やせ細って、みんな心配しとるみたいやけど、両親には一切会うのを拒否しとるみたい」と何度か聞いた。

それから、何年かが経って、Rちゃんのお父さんが病気で亡くなった。

ふと、Rちゃんのお父さん、Rちゃんと最後に心を通わすことができたのかなあって思った。

Rちゃんのお母さん(H先生)は、旦那さんを亡くして悲しんでおられると母から聞いた。

そして、今回のRちゃんの訃報。

先日の父からのメールには、「Rちゃんのあの明るい笑顔、また見たかったなあ」と書いてあった。

私は、皆が見ていたRちゃんの笑顔は、心からの笑顔じゃなかったのかもしれない、、と思った。笑顔でいなきゃならなかったのではないか。

Rちゃん、子供の頃、両親の期待に応えるために、心が安らぐ暇がなかったんじゃないだろうか。

私も含め、周囲の人たちは、「いつも明るいRちゃん。笑顔のRちゃん」のイメージしかなかった。周囲は勝手な妄想をいくらでも作り上げる。

Rちゃんほどではないが、私の父親も教員なので、期待に応えようとしてしまう子供時代を過ごした気持ちが分かるような気がする。Rちゃんの一部が私のなかにもあると思った。

最期にRちゃんとH先生は、心を通わせることができたんだろうか、お互いを許し認められ、心穏やかな時間を少しでも過ごせたのだろうか。

いろいろ想像するが、これは私の勝手な願いだ。

他人は勝手にいろんな妄想や期待を膨らませるが、本当の気持ちは本人にしか分からないのだ。