感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

時間の感覚

人との付き合いにおいて、お互いの時間に対する感覚に共通項があるかどうかはかなり大きなポイントだと思う。

 

例えば、うちの田舎では、夏場は朝6時台に近所の人がやってきて、うちの玄関を勝手に開けて「おはよう~」と呼びかける。

母も、畑や鉢植えに水をやったりしてひと仕事終えた後だから、軽快な足どりで玄関に向かう。

集落全体がそういう感覚だから、かつてピアノの練習も毎朝6時からやっていたし、今回帰省したときもフルートを朝7時くらいから吹いていた。

都会だったら騒音問題ですごく非難されるんだろうが、うちの実家では、畑や田んぼで作業しているおばあちゃんたちから「がんばっとるな~。いい音聴かしてもろとるわ~」とニコニコしながら話しかけられる。

逆に、朝の時間に対する許容範囲は広いが、夜の時間に対する許容範囲は狭い。夜9時近くなったら、電話もかけないし、訪問者もいない。

 

多数決にすると、都会の生活は、朝の時間の許容範囲が狭く、夜の時間の許容範囲が広いだろう。

が、私の場合、通勤に朝は片道2時間弱かかるので、朝5時起きだ。なので、夜は9時を過ぎると就寝準備に入る。これが何かの都合で10時を過ぎて11時になったりすれば、もうフラフラだ。

いまだに私は、田舎タイムで過ごしていることになる。田舎タイムなので、都会で生活していると、時々周囲とのズレが出てくる。ま、これは、自分が夜の付き合いを減らせばいいことなのでコントロール可能だ。

 

問題なのは、相手が一方的に、「まだ若いんだから、どうせ、夜遅くまで起きてるんでしょ」という先入観でこちらの許容範囲外の時間に割り込んだり、「あなたもこれくらいの時間まで起きてるでしょ」との自他の感覚を混同してしまう場合だ。相手が人間的に魅力があり、こちらの好奇心を満たす話をしてくれるなら、なんとか、許容範囲を広げられるが、単に、相手の欲求を満たすためだけの話を夜中まで延々とされるのは、”寝かせない拷問”にあっているような気分になる。


私自身は、自分の時間感覚を誰かに押し付けて、“早朝叩き起こしの拷問”を仕掛けないようにしようと思う。

大事なのは、いかなるときも、お互い

の時間とペースを尊重することだな。

 

 

 

 

筋書きどおり

最近、生きるのが楽になってきたと感じている。

 

それをある人に話したら、自分をイジメなくなったからだろう言われた。

確かに、自分はダメだ、ダメだ、何もかも平均より劣っていると自分をイジメていた頃は、びっくりするくらい理不尽な事件が身の回りで起きていた。そして、それらの事件に直面するたびに、私は損する星の下に生まれたのだから、日々耐えながら、努力を絶やさず生きるしかないのだと心の中でに言い聞かせていた。

 

10代は、他人の評価に応えられるよう必死になり、20代は、他人からの評価を受ける前に、自ら損な役回りを買って、遠回りの道や棘の道を選択して自分を散々いじめ(結果、心身共に限界を感じ)、30代は、自分は強くなったと信じ込み、仕事も人間関係も自分に取り込めるものはすべて吸収してやると身を削ったりした。

共通してるのは、自分は何かが不足してるのだから努力して外から補わなければならないという強迫観念。

 

振り返れば、自分が自身に対して下す評価どおりの筋書きで、人生が繰り広げられていたのだなあと思う。

自分が不足してると思えば、自分の未熟さを思い知らされる事件が起き、足りないものを補おうと一生懸命になれば、私と同様に一生懸命になってる人に出会い、身を削る一生懸命な行動が加速してゆく。

 

出発点が自己卑下だと、そういうキャラクター設定の自分で物語が展開してゆくのだ。

特に20代、社会に出て他人から評価される機会が多くなると、自分が自分を低く見積もれば見積もるほど、他人からも小間使いのように扱われることが増えていった。私はずっと、田舎者で世間知らずで要領が悪いから、都会で働ける能力もないと信じていたので、やっぱり採用試験も通らず(自分を見極めて会社を選んでいないから)、アルバイトや派遣社員で働いていた。それらの現場で、私は、無能な人間であることアピールをしながら、人のミスを被って恩を売ろうとをしたり、考え過ぎて失敗したり、一人で業務を抱え込み過ぎたり、仕事に恵まれないキャラを確立していった。

そうすると、仕事に恵まれない人生シナリオがどんどん組まれ、そういう場面への出番が日々舞い込んできた。本当に仕事でミスをしてたのか振り返ると、そうじゃなく、正職員のストレスのはけ口役や誰かの身代わりをやっていたこともあったと思う。でも、その頃私は、腹が立つというより、そういう役回りしかできないのだと思い込んでいたので、とりあえず出番があってよかった(何かの役に立ってよかった)と自分の存在価値を感じようとしていた。

自分が作ったキャラで、自分が信じ込んでいた筋書きどおりに人生を歩んでいたのだ。

また、20代は、自分が自分にかけ続けた呪いがどんどん現実化していった時代だったと思う。

 

40代の今の私はというと、10代から憧れていた仕事を正職員でやり、私なんか無理だと思っていた結婚もしている。最初の頃は、やっぱり、自己卑下癖が抜けなかったが、少しずつ、私は私で大丈夫だと思えてきて、周りにも感謝できるようになって、あっという間に仕事も結婚も15年。

私の役回りは、日々、自分で望む通りに選択してゆけるのだし、筋書きだって、どんどん書き換えてゆけるということが分かってきた。

キャラ設定は、あらかじめ特にしない方がいいということも分かった。その場面その場面で、私は自分がこうありたいと望むキャラになれるはずだ。


とは言っても、たまに、不安が自分の有りたい姿を曇らせることもある。

つい一昨日のことだが、仕事で専門的な質問をされ、自分の見解を伝えた。が、昨日、その質問者は、私の前で、私の先輩にも同じ質問をした。そして、先輩も、ほぼ私の見解と同じ回答をした。

だから~、一昨日、私も同じこと言ったよね~と内心イラッときたが、これは、回答が問題じゃなくて、私の回答の仕方が

質問者を安心させられなかったのだと気付いた。

一昨日は先輩が休暇で不在だったので、私は、私の回答で大丈夫かなあ~思いながら質問者に説明していた。そういう不安で未熟なキャラ設定をした人物から説明を受けても、質問者だって不安になるだろう。

やはり、自分のキャラは自身が設定していて、そのキャラの筋書きどおりに自分が人生を展開しているのだなと実感した。

 

 

 

非日常のスペシャリスト

最近、立て続けにスペシャリストさんに会う機会があった。


自分の職場も十分にスペシャリスト集団なのだろうが、そういう頭脳プレーで情報収集して、交渉術を駆使し、タイミングの見極めなどに長けるスペシャリストじゃなくて、手も動かすスペシャリストの働く姿を見る機会は新鮮だった。

 

時系列で挙げるが、一人目は、お掃除のスペシャリスト。

職場の既婚者メンバーで評価の高いお掃除屋さんを依頼してみることにしたのだが、噂どおり、彼の入念な掃除ぶりには感服した。大手のお〇うじ本舗から独立して一人で会社を立ち上げ、一人で仕事をやってるのだが、人体に影響ある薬品は一切使わず、2カ所2万円で掃除を請け負ってくれる。


うちはお風呂場と台所換気扇を依頼したのだが、朝9時に来て、なんと、午後1時過ぎまで約四時間を換気扇掃除に費やし、昼休み休憩1時間して午後2時くらいからお風呂場に籠もること約五時間、午後7時になって、「今からお風呂場の換気扇を分解しますので、あと1時間くらいいいですかね~」と声をかけられた。

うちの風呂場はそんなに汚かったんだろうか・・・とか思ったけど、お風呂場は平均5時間かけて掃除するのが彼のやり方だそうだ。

そして、終了後、自分が作成したという実験済みの除菌スプレーをプレゼントしてくれた。

翌日は同僚が予約を入れていたので、「毎日こんなに長時間大変ですよね~」と声をかけたら、「いえ、いつもやってるので~」と全く疲労感のない軽やかな口調で返ってきた。

おかげで、分譲後16年間積もった汚れは一掃され、視界良くお風呂に入ることができて快適だ。


つくづく、大手会社のような効率性などを模倣せず、自分のポリシーを貫くスペシャリストは立派だなと感服した。

 

二人目のスペシャリストは、近所の獣医さん。


先代のニャンコは18歳で大往生したので、亡くなる数カ月前まで獣医さんのお世話になったことがなかった。が、3歳になったばかりの今のニャンコ、人間で言えば、まだ二十代だというのに、歯が一部抜けて部屋に落ちていた。

前のニャンコは死ぬまで歯のトラブルがなかったし、3歳で歯周病は早すぎると思って、すぐに獣医さんに連れて行った。

ここの動物病院は夫婦でやっていて、今回は奥さんが診てくれた。

院長のだんなさんはおっとりマイペースだが、奥さんはテキパキしている。

やはり、3歳の若さで歯の劣化がここまで早いのは、おかしいという診立てになり、別の病気も疑い、血液検査をすることになった。

猫はじっとしていないので、歯の治療も全身麻酔をすることになる。悪い歯は病原菌の巣なので、良い歯は残して、悪い歯は抜歯手術をするという方針に決まった。

ニャンコは午前中に病院に預けて、夕方に迎えに行くという日帰り手術。


手術後に奥さんから説明を受けた。

ネコ科の動物は、獲物の肉を切り裂くために歯を使うが、咀嚼せず丸飲みするので、飼い猫は、歯が無くても問題ないこと。うちのニャンコは、蓋を開けてみたら、ほぼ全部の歯がグラグラの状態だったので、犬歯を残して、全部抜歯したこと。

一見、状態が良さそうに見える歯も2本くらいあったが、ここまで歯の悪化が早いということは、また1、2年後に2本のために抜歯手術をすることになったら、猫の負担もあるし、金銭負担もあるだろうから、申し訳ないですが、私の判断で犬歯以外すべて抜歯しましたと告げられた。


私は、奥さんの判断は適切だと感じ、その判断をありがたく思った。ここで、もし、歯が無くなるのは可哀そうだからと、できるだけ歯を残す処置をしたら、さらに歯周病が進んでしまいそうな気がした。

幸い、血液検査の結果も問題なく、抜歯後もニャンコの食欲は変わらず、元気に暮らしている。

 

つくづく、最初の診立てに固執せず、総合的な面から考え、状況に応じた適切な方針転換と処置ができるのは、さすがだなと感謝と尊敬の念を抱いた。

 

そして、最後のスペシャリストは、救急隊員。


ニャンコの手術翌日、ニャンコはピンピン駆け回っているが、ぐったりしているのは夫。

本人も午前中は腹痛だと言っていたが、午後になって、単なる腹痛ではないような状態になってきた。

週末で近所の病院もやっておらず、休日に診てくれるメディカルセンターも夜間にならないと開かないということで、どうしようもなく、救急車を呼ぶことになった。


人生で自身で救急車を呼んだのは2回目である。

1回目は学生時代に弟と二人暮らしをしていた時で、その時の弟の腹痛と症状が似ているので、おそらく、夫も尿管結石じゃないかと思った。


救急車の音って、町中に反響するから目立ちすぎて気まずい感じになるけど、急いで駆け付けてくれてるんだ~って心強い気持ちにもなるもんだと今回感じた。

救急車が到着すると、救急隊員の方々がテキパキと動いてくれる。

夫に必要な質問をしながら血圧などを測る隊員、受け入れ先の病院を探してくれる隊員、運転する隊員。

そして、夫は、痛みの原因特定まではできなかったが、必要な処置を早急に受けることができた。


救急隊員にとっては日常業務なのだろうが、彼らの冷静で適切かつ丁寧な動きに魅せられた。

 

以上のスペシャリストたちの働き方、私の日常生活圏外だからこそ、心強く、頼りがいがあるように感じるのだろうが、自分の働き方を振り返り、新たな気持ちにさせられた。


 

「感じる」と「考える」

タイトルはカタイけど、内容は、日常でふと気付いたこと。

 

先日、夫が仕事から帰宅したときのこと。

マンションの共同玄関のインターフォンが鳴って、「ただいま。塩、用意しておいて」と言われた。

通常、夫も私も出掛ける時はそれぞれ鍵を持っているので、いちいち共同玄関のインターフォンを鳴らさないし、その上、塩の用意ってどういうことだ??と思った。

ま、仕事関係のお通夜にでも行って、お清めの塩をもらい忘れたのか。

それにしても、切羽詰まってる気配もある。

でも、私は、塩はかしこまって用意するほどのもんじゃないと思ったので、塩を持たず玄関ドアを開けた。

 

夫は、やっぱり切羽詰まっていて「塩、肩にかけて」と言った。

あまりにも切羽詰まってるので、塩は台所にあるよ~とは言えず、「これ、かけていい?」と聞いた(写真)。f:id:msyblog:20180628200423j:plain

 

春に私が奈良一人旅で三輪山参拝に行って、買ってきた三輪山の砂。

玄関でインテリアと化しつつあった三輪山の砂、いよいよ出番が来たよ~と力が入った。


夫のスーツはあっという間に砂で白くなってしまい、不愉快になるかと思ったが、夫は、すごく安堵した顔つきになって、「よかった~」と言った。

言葉の使い方は間違っているだろうが、ある意味、肩の荷が下りた様子で、「肩が軽くなった~」と。

 

私「誰かの葬式?」

夫「違う。」

私「じゃ、病院回り?」

夫「違うよ。今日はデスクワーク」

私「なに???」

夫「なんか、中華料理屋でご飯食べたら、急に肩が重くなった」

私「お酒?」

夫「違う。店のトイレに入ったら、いきなり、肩が重くなった」

私「へ? トイレで? 中華屋の?」

夫「うん」


断っておくが、夫は、決してスピリチュアルなタイプでなく、私のタロットや星読みを全然信じないし、目に見える現実のみを信じて生きてる人種だ。

しかも、大衆的で賑やかなイメージ漂う中華料理屋のトイレと、肩が重くなる世界とは、すごーくかけ離れてる気がした。


が、夫の様子を見ていると、嘘でなく本当にそう感じたのだろうと思えた。


この時、ふと思った。

きっと、私だったら、どう感じただろう。

あ、なんか、肩が凝ってるなあ~。デスクワークで疲れてんのかなあ。またマッサージ行った方がいいかな。頭痛もしてきたよ。今日は早く寝よっと。


ま、こんな感じだろう。


私は、事象の理由をすぐに考え、それに当てはめて納得するタイプで、実は、あんまり事象をそのまま感じられないことが多いかもしれない。タロットも、星読みも、誰かが解説した理論を信じてて、私自身は実感したことがないのかもしれない。

逆に、夫は、誰かが言った話よりも、自分の実感を信じているんだな。

私だったら、気のせいかも! 中華料理屋でこんなことは無いはずだ!疲れてるだけだと頭で考えて、感覚を押さえ込んでしまっただろう。


日常の一コマだけど、「感じる」には、理由などなくて、「考える」には、理由が必要なのだなと、ふと気付いた。


 あと、今週土曜日は、夏の大祓。どこの神社でも茅の輪が用意されてるから、夫と一緒にくぐって半年の厄をお祓いしに行こうかな~。

 

カードを感じてみる

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3年くらい前に出会ったトートタロット。

タロットは習う予定はなかったけど、役に立つだろうと、星読みの先生が教えてくれた。

トートタロットは絵が怖いから苦手~と言われたりするのだけど、他のタロットを扱ったことがなかった私には比較のしようがなく、こういうものかなと思った。

先生はよく虫眼鏡を持ち出して、絵の細部を解説してくれた。

私は、絵の細かさがおもしろいと感じた。

 

先生が話していた、どこかの国の言い伝えが耳に残っている。

『トートタロットを与えられた囚人は、牢から出る頃には、立派な哲学者になっている』

 知識としては教えてもらったけど、私は、哲学者には程遠く、カードの真意を読み取れているかどうか分からない。

だけど、たまに、カードを感じてみる。

 

 6月始め、私の今月の流れを10枚引きで聞いてみた(上:自分のメモ用に撮影したのでテキトウな写真)。

 今月ももう終わりが見えてきたので、ここで、カードからもらったメッセージにやり残しがないか振り返ることにした。

 

1枚目(カードを引いた時点の私):III The Empress(女帝):自分も他人もありのままに受けとめられるようになってきたのかもね。でも、新しく育ててるものが何になるのかまだ分からない。

 

2枚目(最初のカードの根拠・理由):VII The Chariot(戦車):確かに、自分と異なる人を合わせ鏡にして自分を見つめることが多かったなあ。人と自分が違うことを認識して、自分のことが前よりも分かってきたということかな。

 

3枚目(私の潜在意識):XV The Devil(悪魔):自分の葛藤や思考のなかにある欲求は何なのか、別の視点を持てるようになってるか。

 

4枚目(私の顕在意識):ソードの2-Peace(平和):思考は心に安らぎをもたらすように使いなさい ← その通りで、私は頭だけで考えて、心が波立つことが多いな。

 

5枚目(少し過去の私):XIV Art(技):確かに、私と正反対の見方をする人に出会って、私のなかで新しい視点が生まれたかも・・・

 

6枚目(近未来):ソードの4-Truce(休戦):このカードもよく引く。考えるのをやめて心を休めなさい←ちょっとは、思考を休められたかなあ。今、分からないことはそのままでもいいのかもしれない。

 

7枚目(自己評価):ソードの7-Futility(無益):誰かの要望にいちいち応えようとして、頭であれこれ考えすぎるのは無意味:私、相当、頭でっかちになってますね。

 

8枚目(私が置かれた環境):XI Lust(欲望):自分の欲望を全開にして進める状況に居るのか~。自分の欲望が何のか、もっと具体的につかむ必要があるな。

 

9枚目(私の願い/怖れ):  カップの10-Satiety(飽満):何もかも満足したいと思ってるのかもしれないけど、また新たにイチから始めることをしないと飽きちゃうのかもしれない。

 

10枚目(最終結果):0 The Fool(愚者):あるがままの自分を受け入れれば、怖れもなく、無限の可能性を活かして生きて行ける。


で、夏至を迎えたので、改めてカードを引いてみた。

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現在の私は、ソードの7-Futility(無益)で、その理由は、XI Lust(欲望)。まだまだ頭の中で意味ない闘いをしてるのか~。その原因は、自分の本当の望みがしっかり見えてないからということか。


で、最終結果が、カップの10-Satiety(飽満)。これまた、月始めで引いたカード。

「満たされたならば、新しいチャレンジを始めなさい」と言われてるな。

 

 

主観もいいもんだ②

今月の野口整体のクラスは、体癖3種の感覚を味わうことが中心だった。


3種の体の特徴は、消化器(胃)と身体の重心の偏り。先月習った1種と2種は上下型で、歩く時に上下に身体が動くのが特徴だけど、3種は、左右型と呼ばれるとおり、歩く時に左右に身体が揺れるのが特徴。

言葉から物事を理解するというよりも、その人の話し方や口調から物事を感じ取り、自身の自己表現方法は、言葉ではなく、感情で訴える。言語表現が得意ではなく、感情も変化しやすいので、相手の言ったこと、自分の言ったことが記憶に残らなかったりする。体感覚で生きていて、芸術家向きともいえる。

 

私は言葉を大切にしたいタイプなので、3種は言葉が通じないからイラっとしてしまうかもしれない。

実際、野口整体の先生は3種タイプなので、このクラスを受ける前、既にかなりイラっとする体験をしている。

 

個人的に施術を受けた時のことだ。

私の身体に手を置くたびに、「ひどいな」「身体がボロボロになってる」「信じられないな」とつぶやかれた。

私は、もともと健康体だが、わりと健康オタクなので、そのころは頻繁に骨格矯正や筋膜リリースに通っていた。

どうやら、健康なのに余計な施術をされてるから、逆効果で、身体に負担になって、私本来の感覚がアンバランスになっているらしかった。

しかし、患者の身体に触れて、いきなり、ひどいだの、ボロボロだの、信じられないだのという発言はありえないんじゃないか???と思った。

「ひどい」という状態の定義は何なのか、どこがどうなって、どのレベルの酷さなのか、説明が欲しかった。

 

私は失礼な言い方にならないように言葉を厳選して、メールで質問した。

すると、こういう回答が返ってきた。

「言葉で気を悪くされたなら、謝ります。ただ、私の操法を受けに来られた方の中で、ここまでかという状態の方がおられませんでしたので、そう申したまでです。」

私はそれを読んで、さらにフラストレーションが募った。謝罪よりも、体の状態の「ここまでか」というのが一体なんなのか、知りたいのだよ・・・

さらに突っ込んで質問しようとしたが、ふと、それは先生の感覚で、言葉で説明がつかないから「ここまでか」という表現になったのかもしれないと思い直し、質問をやめた。

それに、私がそれまで通ってきた整体やアロマサロンの先生は、世間話を延々としたり、仲良くなると先生の個人的悩み相談までしてくることが多かったが、野口整体の先生は、私の身体の状態を静かに真剣に見つめ、時折、気迫があり、その集中力は怖いくらいだ。

決して嘘をつかないし、適当に患者をあしらっているのではないということは確信できる。

 

この出来事がきっかけになり、私は野口整体の講座を受けることに決めた。

言葉ではない、感覚の世界とはどういうものなのか、言葉で捉える世界とはどう違うのか、そこでは何が見えるのか、好奇心が湧いてきたのだ。

 

3種の世界は、色彩感覚も豊かなようだ。

クラスでは、目を閉じた状態で、先生が私の頭に手を置いて「何色をイメージする?」とたずねた。

私はよくわからないけど、あんまり考えずに「卵色みたいな感じかな」と言った。

先生は、「そう!そうですね。」と言って、「卵色は、いつもの安心できる馴染みの色彩でしょう。 でも、今、潜在的に体が求めてる色は、濃い青色ですよ」と言って、濃紺の色紙を私の目の前に差し出した。

すると、どうしたことか、私の瞼はキュッと上がり、目が見開かれる感じがした。

私の中の眠っている小さな3種の感覚が刺激されて、身体が活性化したのだという。

 

そういえば、フルートの先生が「白か透明か、銀色の音で吹くイメージにしてね」とよく言うが、単なる言葉の比喩なんだろうと受けとっていた。

が、実際、音には色がついていて、そんな世界にフルートの先生は生きているんだろう。

 

言葉でなく、色を体で感じとる世界もあっていいし、おもしろい。

 

消費の果て

ここ2、3年の私は、省エネモードである。

お付き合いの飲み会は極力断り、ヨガ通いは週2回にとどめ、週末は一つ以上予定を入れないようにしている。

年のせいかもしれないが、なんだか、消費活動に飽きてきた。

 

7、8年前の私といえば、誘われる飲み会にはすべて出席し、自分でも飲み会を企画し、飲み会で意気投合した相手とは個人的に語り飲み、ヨガはフリーパス会員だからと月13回通い、仕事スキルを上げるためにと学校にも週一回で通い、週末は趣味グループの農作業に参加するか、アロマトリートメントのボランティア活動に参加していた。

結果、家に居る時間が全くない。

夫の口癖が「また無駄遣いして、遊んでばっかりだな~」になってしまった。

私は、「家がおもしろくない。悲しくなるほど、つまんない」と答えていた。

 

交友範囲が広く、情報通で、幹事役にうってつけで、疲れ知らずな自分像が出来上がり、周囲にそういう印象を与え続けたので、久しぶりに会う友人には、いまだにそれを期待されることがある。

自分でも昔の自分とのギャップに戸惑うことがある。

 

あの自分は、本当に私だったのか? いったい何だったんだろう?

と今の私は感じる。

 

美味しく、斬新な飲み屋を開拓し、それを誰かと共有して高揚感に浸ることに価値を置いていた自分はもう居ない。

なんだかんだ言って、自分で自由にアレンジできる『家飯』が一番いいと思えてきた。

そして、夫の口癖は「せっかく誘ってもらって、交遊を深める機会なのに、なんで断るの?」に変化した。

私は、「もう飽きた」と答えている。

 

自分が変われば人も変わるとはこういうことかもしれないが、自分の変わり様に自分が一番驚いている。