感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

「感じる」と「考える」

タイトルはカタイけど、内容は、日常でふと気付いたこと。

 

先日、夫が仕事から帰宅したときのこと。

マンションの共同玄関のインターフォンが鳴って、「ただいま。塩、用意しておいて」と言われた。

通常、夫も私も出掛ける時はそれぞれ鍵を持っているので、いちいち共同玄関のインターフォンを鳴らさないし、その上、塩の用意ってどういうことだ??と思った。

ま、仕事関係のお通夜にでも行って、お清めの塩をもらい忘れたのか。

それにしても、切羽詰まってる気配もある。

でも、私は、塩はかしこまって用意するほどのもんじゃないと思ったので、塩を持たず玄関ドアを開けた。

 

夫は、やっぱり切羽詰まっていて「塩、肩にかけて」と言った。

あまりにも切羽詰まってるので、塩は台所にあるよ~とは言えず、「これ、かけていい?」と聞いた(写真)。f:id:msyblog:20180628200423j:plain

 

春に私が奈良一人旅で三輪山参拝に行って、買ってきた三輪山の砂。

玄関でインテリアと化しつつあった三輪山の砂、いよいよ出番が来たよ~と力が入った。


夫のスーツはあっという間に砂で白くなってしまい、不愉快になるかと思ったが、夫は、すごく安堵した顔つきになって、「よかった~」と言った。

言葉の使い方は間違っているだろうが、ある意味、肩の荷が下りた様子で、「肩が軽くなった~」と。

 

私「誰かの葬式?」

夫「違う。」

私「じゃ、病院回り?」

夫「違うよ。今日はデスクワーク」

私「なに???」

夫「なんか、中華料理屋でご飯食べたら、急に肩が重くなった」

私「お酒?」

夫「違う。店のトイレに入ったら、いきなり、肩が重くなった」

私「へ? トイレで? 中華屋の?」

夫「うん」


断っておくが、夫は、決してスピリチュアルなタイプでなく、私のタロットや星読みを全然信じないし、目に見える現実のみを信じて生きてる人種だ。

しかも、大衆的で賑やかなイメージ漂う中華料理屋のトイレと、肩が重くなる世界とは、すごーくかけ離れてる気がした。


が、夫の様子を見ていると、嘘でなく本当にそう感じたのだろうと思えた。


この時、ふと思った。

きっと、私だったら、どう感じただろう。

あ、なんか、肩が凝ってるなあ~。デスクワークで疲れてんのかなあ。またマッサージ行った方がいいかな。頭痛もしてきたよ。今日は早く寝よっと。


ま、こんな感じだろう。


私は、事象の理由をすぐに考え、それに当てはめて納得するタイプで、実は、あんまり事象をそのまま感じられないことが多いかもしれない。タロットも、星読みも、誰かが解説した理論を信じてて、私自身は実感したことがないのかもしれない。

逆に、夫は、誰かが言った話よりも、自分の実感を信じているんだな。

私だったら、気のせいかも! 中華料理屋でこんなことは無いはずだ!疲れてるだけだと頭で考えて、感覚を押さえ込んでしまっただろう。


日常の一コマだけど、「感じる」には、理由などなくて、「考える」には、理由が必要なのだなと、ふと気付いた。


 あと、今週土曜日は、夏の大祓。どこの神社でも茅の輪が用意されてるから、夫と一緒にくぐって半年の厄をお祓いしに行こうかな~。