感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

まずは、等身大に戻る

人生の下半期に入って数年。

ようやく、等身大の自分で生きていて大丈夫だと思えるようになってきた。むしろ、等身大でいる方が物事がうまくいくんじゃないかと思える。

 

人生の上半期に、人から「〇〇したほうがいい」「〇〇を気を付けたほうがいいよ」「〇〇が足りないからできるように頑張りなさい」と散々言われ、その忠告を心に留めて、頑張らなきゃ!と生きてきた自分は何だったんだろう?と振り返る。

忠告してくれるほど私に関心をもってくれたという点、私のことが気になったという人の気持ちは受け止められる一方で、はっきり言って、忠告内容は、ほとんど役立たなかったんじゃないかと思う。

今になって分かるが、人からの忠告は、それを言う人のフィルターを通した、その人自身の価値観や心の怖れが少なからず混じっている。

本当に私にとって役立つ忠告をしてくれた人は少ないかもしれない。

 

容姿に対する忠告についてもそうだ。

私の両親は天然パーマで、私も天然パーマだ。

義務教育時代は、何かにつけて、先生からパーマの害(パーマかけてないのに~)や髪型の忠告を受けた。私も、髪を真っすぐにするべく日々努力してきたが、これこそどうにもならず、自分の髪を恨んだ。

十年以上縮毛矯正をかけ続けた挙句、運よく、縮毛矯正は髪に負担だから地毛を生かしましょうとアドバイスしてくれる美容師にめぐり会え、天然パーマの良い部分が発揮できる髪型にしてくれた。すると、不思議になことに、良い部分で悪い部分が気にならなくなって、自分でも扱いやすく、私の髪質を羨ましがる人まで出てきた。

髪を真っすぐにすることを意識し過ぎて、自分の心が歪んでしまっていたと思う。

 

内面にしろ、外見にしろ、一定の規格に合わせようとすればするほど、自分の感覚が歪み、自分本来の持ち味がどんどん消え、未来や希望が見えなくなるのかもしれない。人生の下半期、まずは等身大の自分に戻って、味わいある道を歩んでいきたい。

 

アカデミー賞を受賞したメイクアップアーティストの辻一弘さんのコメントは、私の心にとっても響いたのでここにメモしておく(以下、抜粋)。

「『自分が何をやりたいか』見極めるのが非常に大事で。
親きょうだいとか先生、他人の意見を絶対に聞かない。
絶対に後悔するんで。本当に自分のやりたいことっていうのは、自分にしか見えないわけですよね。
あと、すでに出た答えに沿ってやらないというのが大事だと思います。
本当に自分のやり方、やりたいことに組み合わせていかないと先に行かない。日本人の性格的に、敷かれたレールを生きるのはうまいですけど、そこから出るのはなかなかできないと思うんです。でもこれからの世の中、こうあるべきという生き方をしていたら、絶対に幸せになれないと思うんです。世の中、ものすごいスピードで変わっていますから。自分の方法を考えて、自分に合った生き方をそれぞれが見つけないと。そこが大事ですよね、恐れずに。」

 

 

楽譜は読めるが・・・

昨日は6月6日。
ふと記憶がよみがえってきた。

私が幼い頃、習い事といえば、ピアノかエレクトーンが主流だった。
人口3千人の田舎村でも、ピアノを習う子どもはチラホラいて、私も「ピアノやりたい」と口走ってみた。
すると、母が「絶対、途中でやめないね!お遊びみたいにしたら、お母さん許さないからね」と言った。私はまだ始める前から止めることなんて考えるわけないのになあと思って「うん」とうなずいた。

「習い事は、6歳の6月6日から始める上達するから」という母の意見で、私は、6歳の6月からピアノを習い始めた。
音楽教室の先生も、母が「厳しくていいわ~」と認める先生が選ばれた。

ほどなくして、町の方からピアノの営業の人がやって来た。
ピアノといえば、黒くてピカピカで顔が映る存在感あるフォーム。
保育園にも、近所のAちゃんの家にも、従妹たちの家にも、黒くてピカピカのピアノが鎮座していた。
もうすぐ、そんなピアノがうちにも来る!とワクワクした。
が、「黒いピアノは、ホコリが目立つし、手垢も付くし、好きじゃないわ」という母の一言で、うちのピアノは、表面が木製の茶色いピアノになった。
木製だから、ピカピカじゃないし、顔も映らないし、触り心地もヒンヤリしてない。存在感あるというより、黄色系の絨毯が敷かれた部屋に付け加わった感じ。
でも、母が黒いピアノを嫌ってるみたいだから、茶色でいいかと思った。

そこから、私は、高校を卒業するまでの12年間、母が特別許可を出す日以外、毎日ピアノを弾き続けることになる。
練習が足りないときは、先生に必ずバレて叱られることが分かったから、先生が「30回練習」と言えば、それ以上練習した。

「ピアノが好きかどうか」という選択の余地はなく、「無」の境地で、鍵盤の上で指を動かしていた。
そんなにやれば、誰だって、指は動いて音は出る。
最後の発表会は、難易度一覧の上に位置するショパンの「革命」でトリを務めた。
実に、淡々とした、情熱の伴わない革命だったことだろう。

都会で大学生活を送ることになって、ピアノを持っていけないという状況になり、寂しさというよりも安堵感に包まれた。

ピアノから離れ、音楽から離れて、20年以上の歳月を経て、ふと思い立って、フルートを習い始めた。

そこで、気が付いた。

私は、楽譜は読めるが、音を感じられない。
美しい音のイメージ、音が調和しているってどういうことなのか、サッパリ分からない。
そういえば、ピアノを12年もやっていたけど、どんな音を出してるのか味わったことがなかった。
12年もやってたなら楽譜が無くても一曲披露できるだろうと言われるが、楽譜がなければ、何も弾けない。

フルートは、楽譜が読めても、指が動いても、音を奏でてくれない。
毎回「ラ」の音を確認してから、その日の練習は始まるが、先生の吹く「ラ」と、私が吹く「ラ」の音は全然違う。

フルート歴3年を越え、私が元気な日の「ラ」と、不調な日の「ラ」は響きや張りが違うことが分かってきた。

これは、言葉と感覚の関係にも似ていると思う。
いくら言葉を知っていても、そこに実感が伴わない状態。
いくら楽譜が読めても、「ラ」という一音さえ感じられない状態だったのだ。

フルートは自分で選んだのだし、これからは自分の音を感じてみたいと思っている。

主観もいいもんだ①

この4月から整体の初等講座に通っている。

といっても、別に整体師になりたいわけじゃない。特殊な能力を身に付けたいわけでもない。

ただ、自分の身体を感じ、感覚を味わいたいから。

私は、客観的思考を崇め奉り過ぎて、どうやら主観的感覚に長らく封をしてきたことにようやく気が付いた。

主観は、わがままで一方的で、単なる思い込み、妄想、、、と馬鹿にし過ぎていた。

でも、そもそも、人間の五感って、主観的じゃないか。

 

ということで、月一回のこの講座では、とことん主観的になってみることに決めた。

共に学ぶメンバーには、先生のお弟子さん、夜行バスに乗って遠方から通う方、子育て中の方、看護師さんなど、皆さん熱心な方々で、つい、私もいつもの「真面目ないい子ちゃん」になってしまいそうになる。

が、私の目的は、自分の感覚で身体を味わうことなので、メモも細かく取ることを止めた。

いくら、先生が腰椎3番について解説しても、私自身が腰椎3番がどこにあるのか見つけられて、触れて感じられなければ意味がないからね。

骨も数えるけど、前回は、人それぞれから発せられてる気(気配)の違いについて感じることをした。

野口整体では、人の性質・体質を12種類に分類していることはネットで検索すればいくらでも書いてあるので、だいたいの特徴は頭に入っていた。

ネット情報をまとめると、1種も2種も頭部に焦点が集まる頭脳型だが、1種は何でも言葉で理解しようとする傾向があり、2種は言葉よりもイメージが先行するタイプ。1種は、人を上から見下ろすように世界を俯瞰できると安心し、2種は、自分の気配を主張するのが好きではなく、集団から離れて傍観する立場にいると安心できる。1種は、後頭部下(首の後ろ)が凝りやすく、2種は、首の横(胸鎖乳突筋)が凝り固まりやすい。

 

ここからは、ネットや教科書には書いてないこと。

先生が1種体癖の人の背中に手を当てたとき、先生のいうとおり、私は、その人の背中に細長い板が入っているように見えた(感じた)。

そして、2種体癖の人の背中では、先生の手が水に両手を浸けた時のような波紋ができ、静かに沈んでいくのが見えた(感じた)。

先生はそういう例えはしなかったけど、「2種の人の気は『無』です」という言葉に置き換えていた。

私には、水に両手が沈んでいくような感覚だと思った。

これは、きっと教科書には書いてない私だけの感覚かもしれない。

なんだ、ちゃんと私にも主観的感覚があったんだなと嬉しくなった。

After Eight

今日のテーマは、味覚から蘇る感覚。

久しぶりにミントチョコを食べた。

ふと、あのミントチョコはどうしてるのか気になった。

かれこれ20年以上も前になる。
私はまだ大学生で、アメリカ人夫婦と多くの時間を過ごしていた。

その頃の私は、とにかく、自分とは年齢も出身も、考え方も異なる人と一緒に過ごしたかった。

だから、大学に居るときは、なるべく、自分と同じ学部(文学部)メンバーでなく、正反対の農学部生ばかりの部活に所属し、その部室に入り浸っていた。

自分と同学部のクラスメイトとも仲が悪かった訳ではないが、自分と同じような仲間といるのは退屈で無意味だと考えていた。
今、振り返ると、たぶん、自分が嫌いだったから、自分と同じような人と一緒に居たくなかったのかもしれない。
とにかく、変わらなきゃ!と焦っていた。

自分とは違う世界の人、、、その究極が異文化の香りいっぱいのあのアメリカ人夫婦だったのかもしれない。

ミントチョコ ‘’After Eight ‘’は、彼らの家に常備されていて、夕飯後に奥さんが嬉しそうに戸棚から出してきて一緒に食べた。

After Eight. .. イギリスからやってきたミントチョコ。緑色のBOXに午後8時を指した黒っぽい時計が描かれた、大人の雰囲気のチョコ。

その頃は、ミントチョコは日本であまり売られておらず、ソニープラザで買えるちょっと高額の外国のお菓子だった。

検索してみると、After Eight は、残念ながら、輸入中止になっていて、日本で入手するのが困難になっていた。

そのアメリカ人夫婦もその後帰国し、奥さんは病で亡くなった。

そして、私は、その頃のアメリカ人夫婦と同じ年齢になった。

此処ではないどこかへ行きたい、早く大人になりたい、自分を変えたいとしきりに思っていた自分はもう居ない。

感覚を言葉に、言葉で感覚を

今日からブログを始める。

その目的は、感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせること。

私は、言葉を緻密に追う仕事をしているが、そこに感情表現はないので、自分の感情も感覚も伴わない(私情は挟んではならない)。

こういった仕事を数十年続けているからか、もはや、言葉が先なのか、感覚が先なのか、分からなくなっている。

ありのままの感覚を感じきる前に、サッと感覚を言葉に置き換え、言葉で感覚を間接的に理解しようとする自分がいる。

仕事の影響だけでなく、振り返れば、幼少時代からそういう傾向はあった。

自分の身の回りで起こる出来事を感覚でなく、言葉で自分に解説し、言葉で捉えると安心できるのだ。

よって、感覚を言葉にしないで慌てふためく人、爆発させる人は私の苦手なタイプだった。筋の通った言葉になっていないので、その人の内部を汲み取れない。こちらの勝手な憶測ではその人の本心に近づけないし、やっぱり、その人の口から言葉が欲しいのだ。

最近ようやく、言葉にする術がないからこそ、慌てふためくし、ありのままの感覚を表現するからこそ、爆発させてしまうのだろうと、苦手な人のことを理解できつつある。

さらに、本来、感覚は、言葉にそっくりそのまま置き換えることなど不可能ではないかと思うようになった。

なので、感覚はどこまで言葉にとどめられるのか、言葉は感覚をどこまでよみがえらせることができるのか、ブログを書くことで自分なりに見つめてみたい。