感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

今がいちばん

暑さで体力消耗するのか、平日の帰宅後も、週末もダラダラしている。そうしないと夏を乗り切れない気がしている。

特にこの間の日曜日は、午前中はヨガに行ったが、帰宅後は昼寝し、気が向いてフルートの練習をし、それからまた昼寝、なんだか猫になったような一日だった。

リビングで寝そべりながら、ふと、今が一番いいなあ~と思った。

よく、10代20代の頃に戻りたいという人がいるが、私は、絶対に戻りたくない!

そのころの週末はダラダラ過ごすなんてあり得なかった。なんだか忙しかった。というか、気が休まる時間が無かったと思う。

「そんなダラダラして~。やるべきことあるんじゃないの?」と母の言葉が響く。

自分で稼げるようになるまでは、自分の時間を好きなように使ってはならない気がしていた。

もちろん、今の私は、誰かに時間を管理されなくても、ちゃんとやっていけるし、自分でやるべきことは決められる。

でも、今でもちらっと、母の言葉が脳内で反響することがある。

そういう時は、「大丈夫。もともと、何でも自分で決めて良かったんだよ。自分の人生だから」と言い聞かせている。

新しい付き合い方

先週は水曜日に仕事を休み、体力気力共にフルチャージできたはずだった。
が、木曜日の遅番終了後、宴会に行ってから不調になり、金曜日は、身は仕事場に在りながら、タマシイ抜けたまま1日を過ごし、土曜日もなかなか復活できないまま用事をこなした。

もしかしたら、アルコールアレルギーじゃないかという疑いが見え隠れしている。
少し前から見て見ぬ振りをしてきたが、アルコールを飲んだ後、決まって、鼻が詰まる。で、鼻が詰まるからか、頭痛もやってくる
今回は、ビール一杯と赤ワイン一杯でこの状態。

は~。2年くらい前までは、ノミニケーションを率先して企画し、男性並みに飲んでも平気だったのになあ。
でも、ちょっとホッとした自分もいる。
もともと、そんなにアルコールが好きというわけでなかった。手っ取り早く、コミュニケーションが取れて、人と人を繋げやすいツールとして利用していただけだ。

よって、それだけの関係だった仲間とは、あっという間に縁が切れた。物淋しいという気持ちもなく、薄情なことに、そういう仲間のことをすっかり忘れている。

いろんな意味で、これからは、アルコールとも人とも新しい付き合い方をしようと思っている(下戸の夫を馬鹿にしたことも反省している)。

初心

今日は仕事を休んでみた。
特に私用があるわけでなかったが、仕事が混んでないときは、ポッカリ空白を作ってみることにしている。
有給休暇を取りづらい夫からは、「サボるな~」とか「ふざけるな」とか言われるが、気にしない。
私には私の仕事の世界があって、そこでバランスが取れればよいのだ。

が、性分なのか、小間切れに動いてしまう。
いつも通り5時に目が覚め、寝床でうだうだしているのも6時くらいまでが限界で、洗濯を済ませて、朝ヨガに出掛け、整体に行き、夜はフルートレッスン。

野口整体の個人指導を受けたのは久しぶりだったが、先生は私の身体からフルートの残像を感じたようだ。
そして、私がフルートを練習せねば~という強迫観念で、フルートを楽しめなくなりつつあることを見抜かれた。
ストレスでお腹にガスがたまり、表情が緩まず強張っているらしい。

そうなのだ、、、。
前夜も仕事後に夜9時までメンバー練習があり、私は家が遠いので帰宅したら11時前になり、正直疲れた。で、今日は個人レッスン。
発表会の2カ月前くらいから練習日が増えるのだが、追われる心理状態になる。

野口整体の先生からは、追われてしまうときは、別の方向からアプローチしてみるといいと言われた。吹く練習だけじゃなくて、吹かないで、イメージトレーニングとか、いろんな人の演奏をYoutubeで聴いてみるとか、、。
一本槍のやり方だと、私の性格上飽きが来るのは自分でも分かっていた。

楽しいから習ってみたいと思って始めたのだから、本来、フルートは私にとって楽しいことのはずだから、本来の目的(楽しむこと)を追求すればいいと言われ、そりゃそうだ~、それが私の『初心』であったと思った。

感情表現

 お盆中は気を遣うことが多かったが、収穫もあったのでメモしておこう。

義父の田舎の家は、普段は無人なので、テレビの契約をしていない。でも、唯一、NHKの衛星放送(無料のもの)は映る。

同じ番組が何回も繰り返されてることもあるし、スポーツ番組も興味ないから、私にとってテレビはただ電源が入ってるだけの存在だった。が、今回は、「この番組、見られてよかった~」と思えるものと出会えた。

 

「奇跡のレッスン」という企画番組で、いろんな分野のプロが、ある程度?庶民的な生徒を指導する番組のようだ。

私が見たのは、元ウィーンフィル管弦楽団のトップだったヴァイオリニストのゲーテさんが千葉の公立小学校に指導しにいく企画だった。

私はヴァイオリンの知識はないが、その小学生たちは、親も真剣で、日々何時間も練習しているようで、演奏中も表情は固くピリピリした緊張感を感じた。

が、指導者であるゲーテさんのレッスンが進むにつれて、生徒のバイオリンの音色がとっても豊かになって、柔らかくなっていった。

修行のような音階練習も、ゲーテさんは、「まず、悲しい音階」と茶目っ気たっぷりに悲しそうな表情で奏でて見せ、次は、楽しい音階、最後に、悲しい音階から楽しい音階に切り替えるというレッスンを皆で一緒にしていて、そういう練習方法は素敵だなあと思った。

ゲーテさんが、「正確に演奏することは僕だって日々試行錯誤中だけど、感情表現はどのレベルの人だってできる。良い演奏家とは、音で物語を作れる人なのです」と語っていたのが印象的だった。


途中から観たのと、掃除機と洗濯機を動かしながらチラチラ観る感じだったので、もうちょっとじっくり観たかったけど、すごく心動かされる番組だった。

誰かと比較して正しいか間違いか、どれだけ正しい形とかけ離れているのかに意識が行きがちだけど、感情表現は個々のオリジナルで、自身にしかできない。

私のフルートもそうだけど、音楽に限らず、感情表現には正しいも間違いもないし、誰だって豊かに表現できるはず。自分が何を伝えたいかに常に立ち戻ることが大事で、それが分かったら、伝わるように表現するには何度もトライしてみることが大事なんだなと改めて思った。

大切にしたいこと

頭の中で何となく考えていることが、ちょうど誰かの言葉として目に飛び込んでくることがある。

また、誰かの言葉が私の思考にヒントをくれて、私の表現になることもある。

 

1年くらい前から野澤卓央さんのメルマガ「小さなコツ」シリーズを購読している。彼は、毎日欠かさずメルマガを配信している。

彼の言葉から気付きをもらうことはよくあるのだが、昨日の「小さなコツ」の中で私の心に響いた箇所を書き留めておこう(以下、抜粋)

『好きなことをやりたい”という人は、
“やりたくないこと”や“人の好き嫌い”で、
悩んでいるように見えたのですが、

 自分の“大切なことが明確な人”は、
“すること”や“人の好き嫌い”の悩みが少なく、

“大切なことのために”自分の命、
時間を使っているようにみえました。

 外側を見て、
私の“好きなこと”を求める人生と、

内側を観て、
私の“大切なこと”を大切に生きる人生は、

似て非なるものだと思いました。』

 

私にとって義父(夫の父)と過ごす時間は、ずっと鬼門だった。何年間も、義父が醸し出す緊迫感が嫌で嫌でたまらなかった。そして、それが、夫に対する不満につながっていた。

が、今回のお盆ミッションを境に、私の心は視界がとてもよくなった。目の前で起きる出来事から目を背けずありのままに眺めることができるようになった。

私が大切にしたいことに気付くことができたからだ。

私が大切にしたいこと、、、それは、どんな時もありのままでいること。それができれば、私からゆったりした空気が流れ、周囲の人がお互いに心を伝えられる空間を作ることができるかもしれない。

選択自由

お盆ミッションが終わり、今日は自分メンテナンス日。
朝イチで美容院へ。
義父母の田舎は、シャワーが使えないので、お風呂の使用湯量を節約するため、洗髪はシャンプーのみにしている。
よって、今日は美容院でトリートメントを追加して、髪と心を労る。

最近、ようやく悟りつつあるのだが、物事はバランスが取れていれば大抵大丈夫なんじゃないかと思えるようになってきた。
気疲れする日があるなら、気を休める日を作る。

若いときは、納得いかないことがあると、そういうことが自分の日常に存在してはならないような気がして許せず、理由探しをして、被害者意識を募らせていった。
被害者意識は、どんどん私を本物の被害者に仕立てあげてゆく。

昨日のblog記事にもつながるが、結婚して半分以上の年数は、何かあると被害者になっていた。
誰かに被害者にされたんじゃない。自ら被害者になっていたのだ。

自分の意識で、被害者にもなれるし、そうならないよう選択できることがようやく分かってきた。
不思議なもので、その仕組みに気付いてから流れが変わった。

今回義父が夫に爆発した後、帰り際、台所に向かっている私に「嫌なもの見せてごめんね。一緒に田舎に来てくれてありがとう」と声をかけた。
義父は、「ありがとう」は言えるけど、目下には謝れない人だと結婚当初は思っていた。それどころか、何かにつけて「馬鹿にしやがって」と突っ掛かってくるタイプだと思っていた。
さらに、義母からは、帰宅後、「またまたいらない神経使わせちゃってごめんね。どうか懲りずにお願いします」というLINEメッセージがあった。

こんな言葉をかけられたのは初めてだ。
被害者意識を募らせて、「こんな理不尽な目に合ってる可哀想な私を助けて」と周囲の助けを期待していたときは、どんどん嫌な気分に流れる出来事が積み重なり、一方、被害者でなくなって、どんな出来事も笑って流せる自信ができた途端に、優しい言葉をかけられた。
今回、私がいつもと違う特別なことをやったのではない。それどころか、義父と夫が険悪になっても動じず、何も言わずニコニコしていた。

振り返ると、これまでの私は、何とか、言葉で自分を理解してもらおう、言葉で場の空気を良くしようとしてきた。
今回は、何も言わないのに、私の気の持ちようで流れが変わったようだ。
被害者意識をもっていたとき、実は、私は被害者になりたかったのかもしれない。だから、自分の意のままに、どんどん被害者になれる条件を選んで突き進んでいったのかもしれない。

今の私は、自分で自分を救える術を知ったから、もう被害者になれないし、被害者意識も湧かないのだろう。

「なぜ」の回答

おとといの朝5時半に義父母が家に車で迎えに来て、彼らの田舎で過ごしている。
夫の実家ではなく、夫の両親の田舎に家族総出で、手土産持参で親戚回りをするのが、五月の連休とお盆の年2回のしきたり。

最初の数年は、いろんなことに違和感やモヤモヤを感じることも多かった。
なぜ、親戚同士で異常に気を遣い合ったり、義父が親戚の陰口や愚痴を言うのか。
なぜ、義父の言うことに皆従うのか。
なぜ、義父、義母、私と布団を並べて、夫は、別の部屋で寝てるのか。
なぜ、義父は昔のことをほじくりだして夫を怒鳴りつけるのか。

なぜ、なぜ、なぜ、、、を繰り返して、あっという間に14年目。

でも、ここ3年くらいでやっと私も悟った。

「なぜ」という言葉の前には、「私の育った家庭、親戚はこんなんじゃないのに、このうちはなぜ?」という言葉が存在する。
自分が育った環境や家族関係が当たり前なわけがない。絶対に当たり前じゃないし、普通でもない。
その家、その家族、親類コミュニティで、それ相応のバランスはとれてるはずだ。

うちの実家、親類は女性中心だが、一方、夫の実家、親類は男性中心という違いがあるし、私は言葉に敏感なので、義父の言葉使いに過剰反応していたのかもしれない。
そのコミュニティの中でバランスがとれてるのだと認識できるようになって、一つ一つの出来事を追求する必要はない気がしてきた。

昨晩は、夫と義父がケンカして、夫は、夕方も食べずお風呂も入らず寝てしまった。
夫も極端だが、義父も極端なので、ま、極と極が引っ張り合ってバランスをとっているのだと思えた。数年前までは、私は嫌な気持ちに自ら巻き込まれていた。
極と極は、実は要素が似ている。結局、親子なのだと今では微笑ましく見守ることができる。