感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

選択自由

お盆ミッションが終わり、今日は自分メンテナンス日。
朝イチで美容院へ。
義父母の田舎は、シャワーが使えないので、お風呂の使用湯量を節約するため、洗髪はシャンプーのみにしている。
よって、今日は美容院でトリートメントを追加して、髪と心を労る。

最近、ようやく悟りつつあるのだが、物事はバランスが取れていれば大抵大丈夫なんじゃないかと思えるようになってきた。
気疲れする日があるなら、気を休める日を作る。

若いときは、納得いかないことがあると、そういうことが自分の日常に存在してはならないような気がして許せず、理由探しをして、被害者意識を募らせていった。
被害者意識は、どんどん私を本物の被害者に仕立てあげてゆく。

昨日のblog記事にもつながるが、結婚して半分以上の年数は、何かあると被害者になっていた。
誰かに被害者にされたんじゃない。自ら被害者になっていたのだ。

自分の意識で、被害者にもなれるし、そうならないよう選択できることがようやく分かってきた。
不思議なもので、その仕組みに気付いてから流れが変わった。

今回義父が夫に爆発した後、帰り際、台所に向かっている私に「嫌なもの見せてごめんね。一緒に田舎に来てくれてありがとう」と声をかけた。
義父は、「ありがとう」は言えるけど、目下には謝れない人だと結婚当初は思っていた。それどころか、何かにつけて「馬鹿にしやがって」と突っ掛かってくるタイプだと思っていた。
さらに、義母からは、帰宅後、「またまたいらない神経使わせちゃってごめんね。どうか懲りずにお願いします」というLINEメッセージがあった。

こんな言葉をかけられたのは初めてだ。
被害者意識を募らせて、「こんな理不尽な目に合ってる可哀想な私を助けて」と周囲の助けを期待していたときは、どんどん嫌な気分に流れる出来事が積み重なり、一方、被害者でなくなって、どんな出来事も笑って流せる自信ができた途端に、優しい言葉をかけられた。
今回、私がいつもと違う特別なことをやったのではない。それどころか、義父と夫が険悪になっても動じず、何も言わずニコニコしていた。

振り返ると、これまでの私は、何とか、言葉で自分を理解してもらおう、言葉で場の空気を良くしようとしてきた。
今回は、何も言わないのに、私の気の持ちようで流れが変わったようだ。
被害者意識をもっていたとき、実は、私は被害者になりたかったのかもしれない。だから、自分の意のままに、どんどん被害者になれる条件を選んで突き進んでいったのかもしれない。

今の私は、自分で自分を救える術を知ったから、もう被害者になれないし、被害者意識も湧かないのだろう。