感覚を言葉に、言葉で感覚を

感覚を言葉にとどめ、言葉で感覚を蘇らせる

同窓会に参加して

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前回の日記には「同窓会の誘いに対する私の心境」を綴った。

それがあっという間に時が過ぎて、同窓会当日になり、その余韻に浸るうちにまた時が過ぎ、年が明けた。


ひと言で気持ちを表すと、中学卒業から30年ぶりの同窓会、ほんとに参加してよかった。なんだか、また一つ、私の心のわだかまりが昇華した気がする。

なんなのだろう、この心の軽さ。


私は、過去の自分(特に中学時代の自分)が大嫌いだったので、自分の人生から切り捨てていた。その時代の私は、自分ではない!と思いたかった。


それが、今回の同窓会で統合されたような気がする。

30年ぶりに会う同級生が過去の私を受け入れてくれていたからだと思う。

切り捨てようとしていた時代を一緒に過ごした同級生たちが、こんなに私との再会を喜んでくれるとは思っていなかった。


また、人が個々に抱くイメージとは、本当に不思議なものだと実感した。

中学時代の私に対する印象が、クラスメートによって大きく異なることに気付いた。

私のことを無口で勉強好きな人物と捉えていたクラスメート、大人しいけどピアノの伴奏で目立った存在と捉えていたクラスメート、本当はお喋りで冗談が好きな人物と捉えていたクラスメート、意思が強い人物と捉えていたクラスメート、、、。


そして、私が「中学時代が人生で一番ツマラナイ時代だった」と本音を言ったら、ある友人から「え~。私は中学時代がイチバン楽しかった~」と返ってきた。


こんなにも、個々に感じていた世界が異なり、私に対して抱いていたイメージが異なるなら、私は自分が見たい世界を創り、なりたい自分にいくらでもなれるではないか、と思う。

中学時代の私は、あまりにも、周囲からどう思われているのか、どうやったら周囲の期待に応えられるのか、どうやったら好印象を持ってもらえるのか、に固執し過ぎていたのだ。

なるほど、これじゃあ、さぞかし、ツマラナイ毎日だっただろう。


ある男子クラスメートが言った。

「今の楽しげに生きてる君のキャラクターを中学時代に引き出せなかったのは、俺らの力が足らんかった~」と。

いやいや、枠に自分を閉じ込めていたのは、紛れもなく自分自身。


帰省したときは、また集まる約束をした。ようやく、ありのままの自分で同級生たちとの時間が過ごせる自分になれたことがうれしい。